危機管理方法の確立…トヨタでさえ10年はかかった
ここでトヨタの危機管理のこれまでを総括する。
本格的に始まったのは1995年の阪神・淡路大震災だ。
大部屋での壁管理、白板の活用、先遣隊の派遣、協力会社、被災地域への支援などはこの時にできた。
次に危機に臨んだのがリーマン・ショックだった。この時は災害ではなく需要の急減である。対処はトヨタ生産方式にのっとった生産現場の姿を取り戻すことだった。「異常が顕在化したらラインを止める」という原則を再確認し、「売れる場所で売れる車を売る」という販売面での原則を打ち立てた。
その次のステップは東日本大震災だった。規模が大きく、また長期化した災害に対して、トヨタは東北地方へ工場を移し、雇用を作った。災害支援の規模を大きくし、時間軸を長めに設定したのである。
以後は毎年のように、自然災害が起こっている。それに合わせて危機管理、危機対処が行われている。数年前から、本格的な物流カイゼンが始まっている。
そして…。
2020年、新型コロナ危機が起こった。世界各地の工場は停止し、減産した。また、需要も減少した。しかし、トヨタは赤字に転落しなかった。赤字を出さずに済んだのはこれまでの危機体験とそれに対する耐性の強さ、そして、具体的な対処行動があったからだ。つまり、度重なる危機がトヨタを強くしたと言える。
友山は「そうです。危機管理の方法が確立するのに10年はかかっています。それでもまだ完成はしていません」と語る。
「豊田が社長になった時、とにかくリーマン・ショックの赤字から脱却することが重要でした。豊田は、まず税金を払える企業にしようと言っていました。最初の5年くらいは業績の立て直しに集中したのです。将来に向けて動き始めたのはやっと2015年頃になってからでしょうか。
2018年にはTPS本部を作り、ばらばらになっていた生産調査部を再構成し、TPSをあらためて徹底する活動を始めました。
同時に車両物流や部品物流などの物流部門もTPS本部の傘下に組み入れ、物流のカイゼンを本格的に開始しています。
また、販売分野にTPSを導入する流通情報改善部もTPS本部の傘下に組み入れ、生産、物流、販売、サービスまで1貫してTPSを展開する体制を作りました。
2020年からは人事、総務といった事技系職場にもTPSを入れる事技系TPS自主研活動に着手しました。
異常を見つける、異常があれば躊躇なく止める。生産でも事技系でも現場が自立的に、異常があったらラインを止めていい、そして、パイプラインの在庫は膨らましちゃいけない。仕事を止めたことは後で報告すればいい。それをどうやって挽回するかというのは後で考えればいい…。
今は事技系の仕事も、異常があったら、アンドンのひもを引いて止めていいんだと思うようになってきました。関係者が集まって、なぜ遅れたんだ、なぜ異常があったんだということを職場で明らかにする雰囲気が醸成されつつある」
日本の社会は「組織が決めたこと」をなかなか変えることができない。時代や環境が変わって、あきらかに不合理と思われることでも、止めたり、変えるのは至難の業だ。
さまざまな書類事務におけるハンコの存在がそうだった。新型コロナ危機が起こり、ハンコを押すためだけに出社するという人間が大勢出てきたため、やっとハンコがなくなりつつある。
危機が来ない限り、組織のカルチャー、人間の日常行動はなかなか変わらない。
いい機会だから、危機に陥ったら、何かを変えるべきだ。「昔からやっていること」「かつて、みんなで決めたこと」を疑って、不合理だと判断したらやめる。事態を止めないのは組織が老いているからだ。サムソンをグローバル企業にした李健熙(イゴンヒ)は、1993年、ドイツ・フランクフルトで「みんな変わろう。妻と子以外はすべて変えよう」と演説し、新しい経営方針を示した。
成長しようと思うのなら、それくらい変わらなければならない。
トヨタが異常を顕在化し、つねに職場を見直しているのは組織の老化を防いでいることでもある。
危機管理は老化した組織にはできない。言い換えれば組織の老化、個人の老化を防ぐことは危機管理の第1歩でもある。いらない規則や取り決め、ムダに多い幹部の役職、やたらとハンコが並んだ稟議書…、こういうものはすべてバッサリと切る。
危機管理を言い立てる前に日頃のムダをなくすことだ。
野地秩嘉
ノンフィクション作家