医学部受験は大学入試の最難関。浪人も珍しくないが「多浪するほど医学部に入りにくくなる」という意見や「何浪したらあきらめるべきか」という議論もあり、現実は相当厳しい。筆者は自らの受験を振り返り「現役時代の受験は惨敗、浪人時代もD判定やE判定。なぜ合格できたのか、よくわからなかった」と語る。受験から10年以上を経て気が付いた「C判定未満でも合格できた理由」とは?

「なぜ自分が医学部に合格?」10年越しでわかった答え

早いもので、医学部を受験してから12年もの歳月が経とうとしています。医師になることを夢みるようになった高校1年生の夏から、がむしゃらに勉強する日々が始まりました。気がついたら摂食障害を発症し、「明日死んでしまうよ」と言われたのが高校2年生の冬でした。現役時代の受験は惨敗、浪人時代もD判定やE判定しか出せなかった私でしたが、なんとか医学部に合格することができました。

 

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「どうやったら医学部に合格できますか」と聞かれますが、C判定すら取れなかった私には、どうして医学部に合格できるのか、どうやって合格できたのか、よくわかりません。ただ、自分を信じて最後まで勉強し続けた結果合格した、ということは胸を張っていうことができます。

 

けれども、それ以上の理由があったことに社会人になってようやく気がつきました。両親が勉強をする環境を与えてくれたこと、そして合格を信じてずっと応援してくれたことが、勉強し続けた自身の努力以上に大きかったということに。

 

私の受験体験記は、摂食障害を患ったという点で異質で参考にならないかもしれません。しかしながら、31歳になった今振り返ると、物心つく前から親が与えてくれたすべての経験が医学部合格につながったのではないかと感じています。そんな私の医学部受験体験記を書きたいと思います。

 

(※写真はイメージです/PIXTA)
(※写真はイメージです/PIXTA)

褒められることが嬉しくて、幼少期から勉強に没頭

私は、アウトドアが好きな会社員の父と教育熱心な主婦の母、2歳年下の妹という家庭に育ちました。周囲には医師はもちろん、医療関係者はいません。教育熱心だった母親は、家計をやりくりし、なんとか教育費やお稽古代、そして塾代を確保してくれていたようです。

 

私の勉強は、公文式からスタートしました。幼い頃のことなのでほとんど記憶にありませんが、教室に置かれていた黒電話と、英語が苦痛で仕方なかったこと、百ます計算を一生懸命書いたこと、そして頑張って教材を進めていけば親に褒めてもらえることが嬉しくて頑張ったことを鮮明に覚えています。

 

小学校2年生になり、細長い携帯電話を首からぶら下げて、放課後に自宅のあった大津(滋賀県)から京都までJRと地下鉄を乗り継いで塾に通うようになりました。中学受験をする同級生はごくわずかという環境下ではありましたが、小学校の授業よりも塾の授業のほうが何倍も楽しかったので、山のような宿題をこなすことも、帰宅時間が遅くなることも苦痛ではありませんでした。

 

アウトドアが大好きな父は、幼い頃から、海水浴や山登り、キャンプ、スキーなど週末になってはいろんなところに連れて行ってくれました。父が改造したワゴン車に乗って、北海道を一周したこともありました。そんな旅に必須だったのが勉強道具。キャンプ場や道の駅など、どこでも勉強させられた記憶があります。次第に休日でも塾に費やす時間が増え、週末に出かけることはなくなりました。父にとって、それはとても寂しかったようです。

 

「あの制服を着て通学したい」と一目惚れした第一志望の中高一貫校(四天王寺学園)に合格し、滋賀から大阪まで通う生活が始まりました。巷では「動く墓石」と呼ばれていた制服だったことを知ったのは入学した後でしたが、そんな制服が私は大好きでした。

 

朝6時ごろには家を出て、宿題を行き帰りの電車の中でこなし、帰宅して寝るという毎日。早起きも長時間の通学も苦痛ではありませんでしたが、中学2年生のころ、父の転勤で大阪に引っ越してから通学時間が半分になり、とても楽になりました。

 

次第に学校に行きたくなくなってしまったのは、ちょうど中学3年生の頃だったと思います。勉強についていけなくなるのが怖かったので休むことはなかったのですが、友達付き合いがうまくできなくなり独りでいることが多くなった私は、休み時間を図書館で過ごし、勉強と読書に没頭するようになりました。没頭しているときはすべてを忘れることができたからです。

「医師になりたい」一心で摂食障害を克服するも…

人生の転機は高校1年生の夏でした。「もう少し頑張ったら、医学部も十分目指せるよ」。担任の先生のこの一言が私の頭の中で「勉強すれば医学部に行ける」に変換され、その日から私の猛勉強が始まったのでした。

 

自分の太った体型が気になり始めたのも、同じ頃でした。次第に食事量を減らすようになり、母の作る食事を食べなくなりました。いつの間にか摂食障害を発症していた私はみるみる痩せていきました。思春期の真っ只中だった私は親とコミュニケーションを取ることがほとんどなくなっていたため、親はどんどん痩せていく私にどう声をかけていいかわからなかったと言います。

 

高校2年生の冬のある日、大学病院の精神科に連れて行かれた私は、そのまま精神科の閉鎖病棟に入院となりました。病気の自覚がまったくなかった私は、「どうしてご飯を食べないといけないの」と心底思っていたのですが、半ば強制的に食事を取らされ身体にエネルギーが巡り出したからでしょうか。両親含め周囲に多大な心配をかけていたことに気づくと同時に、「このままでは一生、閉鎖病棟から出してもらえない」とわかり、どんぶり鉢に山盛りによそわれた白米を一生懸命食べ、40kgまで体重を戻しました。

 

摂食障害を克服できたのは医師になりたいという強い思いと、両親や担任の先生の励ましのおかげでした。しかしながら、4ヵ月後に退院できたものの、授業にはまったくついていけませんでした。いつの間にか、卒業を迎え、現役時代の受験もあっけなく終了。

 

どうしても医学部進学が諦められず浪人することにしましたが、模擬試験はDやE判定しか出ない日々が続きました。もう二度と浪人はしたくないと思うほど辛い日々でした。でも、悔いなく勉強すれば合格できると自分を信じて諦めずに勉強し続けるしか私には残されていませんでした。

多浪、女子差別、試験地獄…逆境を乗り切った根本要因

当時、予備校の先生から「多浪するほど医学部に入りにくくなるからね」と言われていました。国公立のほとんどの医学部において男子の合格者数のほうが女子よりも多かったのですが、この点についてはまったく疑問を持っていませんでした。入学を許される一人になるしかないと思うしかありませんでした。

 

女子受験生を一律減点し、恣意的に減らしていたことは、女子差別であり許せませんが、18歳や19歳のときに、女子差別の実態があるとわかっていても、きっと医師になることを目指したのではないかなと思います。

 

幸い、私は医学部に合格することができました。ひとえに、将来の選択肢が一つでも多くなるような教育環境を幼少期から与えてくれて、時に厳しくも一番の応援団でいてくれた両親のおかげだと感謝しています。

 

医学部に入ってからも、順風満帆というわけにはいきませんでした。試験のあまりの多さに実家に泣いて帰ってしまったこともありました。再試験になってしまうこともありました。覚える量が膨大で覚えきれず、徹夜することも何度もありました。医師国家試験の勉強は、合格しないと医師になれないというプレッシャーから、大学受験以上に勉強しました。

 

初期研修先の病院も希望していたところは不合格でしたが、来ていいよと言ってくださった病院があったので、無事初期研修を終えることができました。

 

現在、大学の医局や専門医制度には属さず、大学院の博士課程に在籍しながら臨床の現場で働いています。「摂食障害の経験がなかったら…」とふとしたときに思うこともありますが、過去のすべての経験が自分の糧になっていると信じています。常に患者さんに寄り添うことのできる医師になれるよう、努力していきたいと思いっています。

 

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山本 佳奈

ナビタスクリニック(立川・新宿)内科医

よしのぶクリニック(鹿児島市)非常勤医師

 

 

 

 

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