NHK連続小説『おちょやん』で杉咲花さん演じる主人公、浪花千栄子はどんな人物だったのか。幼いうちから奉公に出され、辛酸をなめながらも、絶望することなく忍耐の生活を送る。やがて彼女は銀幕のヒロインとなり、演劇界でも舞台のスポットライトを浴びる存在となる。この連載を読めば朝ドラ『おちょやん』が10倍楽しくなること間違いなし。本連載は青山誠著『浪花千栄子 昭和日本を笑顔にしたナニワのおかあちゃん大女優』(角川文庫)から一部抜粋し、再編集したものです。

女学校を卒業した高学歴女性と同等の給料

古い寺社や町並みが多い古都では、わざわざ金のかかるセットを組まなくても、時代劇の撮影に使える場所があちこちにある。そのため、東亜キネマの他にも、多くの映画会社が、京都に撮影所を作り時代劇映画を大量に製作していた。

 

現代劇の撮影は東京、時代劇の撮影は京都。と、そんなすみ分けがされていた。

 

また、関東大震災によって東京が壊滅すると、各社は俳優やスタッフを東京から京都に避難させて映画製作を再開した。時代劇だけではなく、現代劇の撮影も京都で行われるようになる。

 

大正末期の京都は「日本のハリウッド」と呼ぶのに、ふさわしい状況だった。

 

さて、話を等持院撮影所に戻そう。

 

当時、この寺には直木賞作家の水上勉が修行僧として暮らしていた。まだ13〜14歳の少年である。彼もまたキクノと同様に貧しい家に生まれ、幼少の時から親元を離れて京都の寺院に預けられていた。

 

水上勉が、その修行僧時代の体験を綴った『私版京都図絵』でも、東亜キネマ撮影所のことについて触れている。

 

それによれば『忠臣蔵』の撮影では「松の廊下」に仕立てた方丈の縁で、浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた。また、吉良邸として使われたのは、方丈前庭の唐門、庭園では何十人もの役者が入り乱れて戦う、討ち入りシーンが撮影されたという。

 

娯楽の少ない修行僧の生活で、映画の撮影を見物するのが、当時の水上には唯一の楽しみだった。東亜キネマの社員や撮影隊のスタッフとも仲良くなり、人手が足りない時にはレフ板を持って、撮影を手伝うこともあったとか。

 

人気役者の演技を間近に見られるのは役得だった。女優として撮影に参加していたキクノとも、出会っていた可能性はある。

 

しかし、彼女の自伝『水のように』では、

 

「撮影所は等持院という有名なお寺の地内でしたが、私の思い違いかもしれませんが、当時そのお寺に、『雁の寺』の水上勉さんが、修行していられたのではないかと存じます」

 

と、さすがに大勢の撮影隊に紛れて、レフ板を持っていた小僧の姿は、目に入っていなかったようだ。

 

小僧時代の水上は1銭の小遣いも与えられず、寺の雑用でこき使われていたというが、それに比べるとこの頃のキクノは恵まれていた。専属契約を結んだ東亜キネマは、彼女に月給35円の支給を約束している。

 

大正時代末期になると、女性たちの社会進出が進む。口入れ屋の募集も、以前は女中くらいだったが、ここのところ、電話交換手や看護師など業種が増えている。

 

賃金は電話交換手が月給23〜24円、事務職が月給36〜37円といったところ。すべて女学校卒の高学歴女性が憧れた花形職業であり、給与面でも女性としてはかなり高給の部類だった。

 

キクノに支給される35円の月給は、それらと比べても見劣りしない。小学校も満足に行けず、8年間も無給でこき使われ続けた自分が、いまは女学校を卒業した高学歴女性と同等の給料をもらえるようになろうとは。

 

はじめての給料を受け取り、封筒の中身を確認する。紙幣を数えるうちに、感無量思いがわき起こる。

 

撮影所に近い場所で6畳間の下宿を借り、生まれてはじめて部屋の主となった。

 

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浪花千栄子 昭和日本を笑顔にしたナニワのおかあちゃん大女優

浪花千栄子 昭和日本を笑顔にしたナニワのおかあちゃん大女優

青山 誠

角川文庫

幼いうちから奉公に出され、辛酸をなめながらも、けして絶望することなく忍耐の生活をおくった少女“南口キクノ”。やがて彼女は銀幕のヒロインとなり、演劇界でも舞台のスポットライトを一身に浴びる存在となる。松竹新喜劇の…

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