黎明期の映画は超低予算。製作予算はわずか30円
勢いを増す映画産業
日露戦争後の日本では、ニュース映画や記録映画がさかんに製作され、「出来ごと写真」「活動写真」などと呼ばれて上映されるようになっていた。
しかし、いつまでもそれだけでは飽きられる。物語性のある劇映画も多く輸入されるようになり、そのファンも増えている。
そこで、横田商会は、京都・西陣で小さな芝居小屋を経営しながら、脚本や演出も手掛けていた牧野省三に監督を依頼して、日本初の時代劇映画である『本能寺合戦』を製作した。
『本能寺合戦』は、明治41年(1908)に公開されて大ヒットした。牧野は映画の面白さに魅せられて、その後も作品を撮り続けた。
この頃になると東京・大阪・京都などの大都市には映画館が次々に建てられるようになり、常設館では目新しい作品を常に上映し続けていかねばならず、映画を作れば売れるといった状況である。
しかし、黎明期の映画は超低予算。『本能寺合戦』の製作予算はわずか30円だったというから、当時の巡査や小学校教師の給料3ヵ月分といったところだ。
映画俳優には歌舞伎役者を使っていたが、安い出演料で一流どころは雇えない。また、二流や三流の役者でも、
「土の上で芝居するような、恥ずかしいことはできない」
と、映画出演を敬遠する。
役者の演技は板張りの舞台でやるもので、道路や寺の境内など、地面でロケ撮影をする映画は卑しいというのだ。
幸い、芝居小屋の経営者である牧野には歌舞伎や狂言の役者に知人・友人が多い。なんとか役者をそろえてくれるだろう。彼に監督を依頼したのは、その期待もあってのことだった。
牧野はまた、従来の歌舞伎とは違って、映画では素早い動きや迫力のある殺陣がウケると考えていた。その素質がある者を探してまわり、売れない旅芸人だった尾上松之助を見出す。
尾上は小柄な男だが、その動きにはキレがある。また、トレードマークの大きな目玉で見得を切る表情にもインパクトがある。
こいつは映画向きだと、牧野は思った。その狙いは当たり、彼は「目玉の松ちゃん」の愛称で人気を呼んだ。
「目玉の松ちゃん」の効果もあり、劇映画を上映する映画館は連日の盛況。当時、他社でも劇映画を中心に製作するようになり、日本の映画産業は急発展をとげる。「活動写真」が「映画」に呼び名が変わるのも、この頃のことだ。
「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三は、いよいよ映画製作に本腰を入れるようになる。量産をめざして、洛北の等持院境内に土地を借り、撮影スタジオを建設したのは大正10年(1921)のことだった。