NHK連続小説『おちょやん』で杉咲花さん演じる主人公、浪花千栄子はどんな人物だったのか。幼いうちから奉公に出され、辛酸をなめながらも、絶望することなく忍耐の生活を送る。やがて彼女は銀幕のヒロインとなり、演劇界でも舞台のスポットライトを浴びる存在となる。この連載を読めば朝ドラ『おちょやん』が10倍楽しくなること間違いなし。本連載は青山誠著『浪花千栄子 昭和日本を笑顔にしたナニワのおかあちゃん大女優』(角川文庫)から一部抜粋し、再編集したものです。

成長産業の映画業界は異業種からの参入が相次いだ

映画館に新作映画を供給し続けるために、「プログラムピクチャー」(映画会社が製作・配給・興行をすべて管理し、映画館の上映作品やスケジュールを決定する形態)のシステムが確立しつつあった頃。成長産業の映画業界には、異業種からの参入も相次ぐようになる。

 

等持院境内に牧野の撮影所が完成した2年後、大阪に本社を置く八千代生命が出資して東亜キネマが設立された。

 

この会社は、第一次大戦の戦争景気によって儲けた保険会社が、余剰資金の投資先として、成長著しい映画産業への参入を目論んで創業したものである。

 

大正末期の京都は「日本のハリウッド」と呼ぶにふさわしい状況だったという。(※写真はイメージです/PIXTA)
大正末期の京都は「日本のハリウッド」と呼ぶにふさわしい状況だったという。(※写真はイメージです/PIXTA)

 

東亜キネマは資金難に陥っていた牧野のマキノ映画製作所を吸収合併し、施設と人材の充実をはかる。牧野はそのまま撮影所長となった。

 

資金の潤沢な東亜キネマの庇護により、映画製作に没頭できる。牧野にとっても悪い話ではない。当初はウィン・ウィンの関係だった。しかし、実業の世界から出向してきた経営陣はシビアに利益を追求し、あれこれと細かい要求をしてくる。

 

面白い映画を撮ることだけに集中したい牧野とは相容れず、軋轢が生じることが多々あった。やがて両者は袂を分かつことになる。

 

キクノが東亜キネマに入ったのは、牧野省三が撮影所を去った直後の頃である。

 

牧野は再び独立してマキノ・プロダクションを設立し、彼を慕うスタッフや役者たちもそちらに移籍した。それでは、撮影所は人手が足りなくなってしまう。素人同然の彼女を専属女優として雇ったのも、そんな経緯が影響していたのだろうか?

 

月給35円の専属女優

 

等持院の総門を通り、境内に入る。参道に沿って左側には土塀が続く。

 

現在、土塀の向こう側は、民家が軒をつらねる住宅地になっている。その住宅地を横目にしながら、参道をさらに進むと、やがて、衣笠山を背景にそびえる伽藍が見えてくる。方丈や庫裡の手前には墓地があり、その一角には牧野省三の銅像が設置されている。

 

牧野省三像の視線の先には、参道沿いの住宅地がある。

 

そこが、かつて等持院撮影所があった場所。オープンステージと4つの撮影スタジオ・現像室・小道具部屋・俳優の控室などが建ち、当時としては日本有数の規模を誇っていたという。

 

牧野が去った後は、東亜キネマ京都撮影所に改称されて、昭和7年(1932)まで映画を撮り続けてきた。

 

キクノが入社した当時はその最盛期。毎日、大勢の役者やスタッフが集まり、撮影所内だけではなく、境内のあちこちで映画の撮影が行われていたという。

 

たとえば、牧野省三の銅像が立つ墓地。古い映画が好きな人には衣笠山が背後にそびえる風景に、見覚えがある人は多いかもしれない。時代劇映画のクライマックス、決闘シーンのロケ地として、多くの監督が好んで使う場所だった。

 

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浪花千栄子 昭和日本を笑顔にしたナニワのおかあちゃん大女優

浪花千栄子 昭和日本を笑顔にしたナニワのおかあちゃん大女優

青山 誠

角川文庫

幼いうちから奉公に出され、辛酸をなめながらも、けして絶望することなく忍耐の生活をおくった少女“南口キクノ”。やがて彼女は銀幕のヒロインとなり、演劇界でも舞台のスポットライトを一身に浴びる存在となる。松竹新喜劇の…

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