東亜キネマはの規模なリストラに猛反発
義憤にかられ専属契約を破棄
デビューから約1年が過ぎて、年号も大正から昭和に変わった。
東亜キネマでは新年の恒例行事として、専属俳優陣を京都市中の映画館に集めて舞台挨拶する催しを行っていた。昭和2年(1927)の正月には、キクノもこれに参加している。看板女優のひとりとして扱われていたということである。
喜ぶべきだろう。が、この時にひと悶着が起こる。
訪問着を持っていなかった彼女は、貸衣装を借りて舞台挨拶に出席した。映画館からもらったご祝儀では、貸衣装代には足りず、赤字になる。
当然、必要経費は会社が負担するべきだと交渉するのだが、突っぱねられて怒り心頭。以後、東亜キネマが主催するイベントへの出席を一切拒むようになってしまった。
納得できないことには従わず、自分の主張を押し通す。女優の仕事に慣れるにつれて、気の強さが表に現れはじめていた。
また、この年になると東亜キネマは、大規模なリストラに着手することになる。
同社は等持院撮影所にくわえて、六甲山麓にも甲陽撮影所を所有していた。京都では時代劇、神戸ではモダンな現代劇を撮るという、すみ分けもできていたのだが、ここのところ会社の経営事情が思わしくない。
そこで甲陽撮影所を閉鎖し、映画製作を等持院撮影所に一元化する決定がされた。相当数の人員も整理されることになる。
リストラの波は俳優陣にも押し寄せた。
映画会社は主役や準主役となるスターだけではなく、「大部屋」と呼ばれる端役の役者にも、「専属」として給料を支払っている。しかし、撮影所をひとつにまとめたことで端役に余剰人員が生じ、数名を解雇することになった。
会社側は成績や素行などを見て、リストラ対象者を選んだというが、そこには当然、人事担当者の主観や好みが入ってくる。
愛想のひとつも言わないが、真面目に演技に取り組んでいる者が解雇され、演技の仕事は適当でも、媚びることが上手な者が残された。と、キクノの目にはそう映った。
スターとして扱われている彼女には、端役のリストラなど関係のないことだが、えこひいきは許せないといった思いが、むくむくとわき起こる。