日本各所に点在する、高級住宅地。どのようにして高級住宅地となったのか、その資産価値はどれくらいなのか。富裕層が住む、知られざる高級住宅地のストーリーを紐解いていきます。今回ご紹介するのは、目黒区柿の木坂。

「都立大学駅」は4年間だけ「柿の木坂駅」だった

「渋谷」を出発し、横浜方面へと延びる東急電鉄東横線。沿線には「中目黒」や「自由が丘」など洗練された都会的なイメージの街が多く、人気の高い路線のひとつです。そのなかでも人気を集める「都立大学」駅。名前の通り、以前、東京都立大学があったからその名が付いている駅で、隣の「学芸大学」とともに、駅名の大学の最寄りではない駅として知られています。

 

この都立大学エリアには、高級住宅地として知られる3つの街があります。ひとつが駅の東側で環状七号線を超えたあたりの「碑文谷」、そして駅の西側で駒沢公園の裏手にあたる「八雲」、さらにこのふたつの街に挟まれた「柿の木坂」です。駅の西側、東横線の線路に近いほうから1丁目、2丁目、3丁目となります。

 

「柿の木坂」には交通の要所としてよく聞く「柿の木坂陸橋」があるので、耳にしたことはある、という人も多いでしょう。その名の通り、もともとは坂の名前です。柿の木坂陸橋交差点から、目黒通りを「都立大学」駅方面へと下っていく坂こそ「柿の木坂」。現在は舗装された真っ直ぐな坂道ですが、かつての「柿の木坂」は、西側へ大きく湾曲した急勾配な坂道でした。目黒や世田谷の農民が市場のある神田や京橋に向かうには荷車でこの坂を越えなければならず、それはそれは難所だったと伝えられています。

 

もともと郊外の農村地帯だった現在の目黒区ですが、関東大震災によって家を失った人々は西へ西へと移動。目黒区でも急激な都市化が進み、そのころ、東横線は開通します。しかし柿の木坂エリアの宅地化は遅く、昭和10年代までは呑川を中心とした農村地域のままでした。その後の戦争では柿の木坂全域は戦火は免れました。代々、この地を縁とする人が今なお多く住んでいるのはそのためです。

 

そんな「柿の木坂」ですが、最寄り駅「都立大学」は、「柿の木坂」駅として1927年に開業。4年間だけ、その名前で存在していました。そのことを残念に思う人もいるかもしれませんが、大学の存在は、このエリアのイメージを決定づけるものでした。

 

名前から感じられるのは「文化の薫り」。当時、東急(当時、東京横浜電鉄)は、沿線の開発を進めるにあたり、積極的に大学を誘致しようと試みます。レベルの高い大学の存在は、エリアのブランド価値をあげるために必須で、高級住宅地の醸成にも欠かせないものだったのです。

 

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