成城がいかにして高級住宅地の代名詞となったのか?
新宿から小田急小田原線で15分ほどの「成城学園前」。駅北側、東側は仙川、西側は野川に挟まれた台地に、都内でも有数の高級住宅地と知られる街並みが広がります。
もともとこの辺りは東京の片田舎でしかありませんでしたが、関東大震災後、都心で被災した人流入が始まります。そして1925年(大正14年)、当時、新宿・牛込にあった成城学校(現成城中学・高等学校)から分離した成城学園が、砧村大字喜多見字東之原に移転してきます。そして周辺の土地を学園都市にふさわしいように整備していきます。
1927年に小田急小田原線「成城学園前」駅ができると、小田急線以北は喜多見成城北、以南は喜多見成城南とされ、1936年、砧村は東京市に編入され世田谷区に、大字喜多見は喜多見町に、喜多見成城北と南は合併して成城町となりました。
学園の移転がきっかけで、成城地区の宅地化が進んでいきましたが、そこで多大な貢献をしたのが、学園とその保護者や教職員たち。イギリスの田園都市を基にするという街の方向性を決め、生垣に多彩な樹木や花を植えるなどしていきました。
また街づくりに貢献した人物として、民俗学者・柳田國男も忘れてはなりません。柳田が新宿区市谷加賀町からこの地に移り住んだのは、1927年のこと。自治会会員として、地域の植林を中心とした街づくりや文化事業に積極的に関わっていきます。さらに北原白秋や大岡昇平などの文化人が多く住んだことにより、成城はアカデミックな雰囲気をたたえることとなりました。
さらに駅南側にある東宝のスタジオがあることから、黒澤明や三船敏郎を始めとした、多くの映画スターがこの地に居を構えたことで、高級住宅地・成城の名は全国区になりました。