目白の歴史を紡ぐ、学習院と尾張徳川家
巨大ターミナル「池袋」からJR山手線でひと駅の「目白」。近接する「文京区目白台」とともに、学習院大学や日本女子大学、川村学園などの教育機関や幼児教育の私塾が集積するため、アカデミックな印象も強い高級住宅地です。
元々は徳川幕府の狩場・狩猟場だった地域。その周りを守るように大名や旗本の屋敷が建てられました。明治時代以降はその屋敷を利用して華族や文化人が邸宅を構えたことで、高級住宅地としての地位を確立しました。
そんな「目白」の象徴的な存在であり「目白1丁目」の大半を占める「学習院大学」は、1847年、京都御所の東側に公家の教育機関として設けられた学問所が起源。1877年、神田錦町に皇族・華族のための教育機関としてあらためて開校し、1908年に目白の地へと移転してきました。
緑豊かなキャンパスには、明治天皇の行幸を記念して造られた前方後円風の「御榊壇」や、第10代院長・乃木希典が学生と寝食を共にした「乃木館」、朝香宮邸(現東京都庭園美術館)などを手がけた宮内省内匠寮技師の権藤要吉による「西一号館」など、深い歴史を感じさせる施設が点在。大学内の施設ですが、格式高い街の雰囲気を醸し出す要素になっています。
その敷地に隣接するのが、2006年に建てられた「目白ガーデンヒルズ」。優れた意匠の設計により、グッドデザイン賞を受賞したレジデンスで、都心では稀な11,621m2もの敷地、400戸近い規模を誇ります。著名人や元皇族が住むことでも知られ、近年、目白のブランドをさらにワンランク高いものにしたと評判を呼びました。
さらに目白を語るうえで欠かすことのできないのが、徳川御三家の尾張徳川家です。19代目当主・徳川義親氏は、1931年、代々伝わる美術品や資料の管理などを目的に「尾張徳川黎明会」を設立。目白を本拠地にします。1934年には英国チューダー様式の木造2階建ての邸宅が現在の目白三丁目に完成し、それまで住んでいた麻布富士見邸(現・駐日フランス大使館)から越してきました。この邸宅の設計は「銀座和光」などを手掛けた渡辺仁。邸宅は1968年に長野県南佐久郡南牧村に移築され、現在は「八ヶ岳高原ヒュッテ」として親しまれています。
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