古くは郊外の別荘地として人気だった高級住宅地
京浜東北線、「大井町」と「蒲田」に挟まれた「大森」。明治時代、アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが発見した大森貝塚で知られていますが、駅の西側、なだらかな台地が展開されている大田区山王地区は、都内でも有数の高級住宅地として知られています。
「山王」の地名は、駅の北側にある「大森山王日枝神社」に由来しますが、浮世絵師の安藤広重が「名所江戸百景 八景坂鎧懸松」という作品を残すなど、古くから高台から海を望む景勝地として知られていました。
住宅の開発は明治時代に入ってから。大田区の高級住宅地といえば田園調布が有名ですが、山王地区はその開発よりも30年以上も前のこと。1889年に東海道線が全線開通したころから、内閣総理大臣を務めた桂太郎、西園寺公望、清浦奎吾、芦田均など、政治家や実業家を中心に、この地に別荘として邸宅を構えるようになります。
また1884年には、現在の天祖神社の裏手に、郊外随一の遊園地である「八景園」が誕生。遊園地といっても、さまざまな遊具が配されたものではなく、わらぶきの家屋のほか、桜や梅の木が植えられた、いまでいう風光明媚な公園といった趣きのもの。駅東側の海水浴場や鉱泉とともに、大森一帯は行楽地として栄えていきました。多くの人を楽しませた「八景園」は、閉園後、1922年からは住宅地として分譲がはじまります。
さらに1889年には、現在の大森二丁目に、明治天皇の御下賜金を受け、西郷隆盛の実弟である西郷従道によって「大森射的場」が開かれました。さらに大正時代に入ると、敷地内に2面のテニスコートが設けられます。周辺の宅地化が進むなか、射撃には適さない土地となり、多くが分譲されるように。一方、テニスコートは残り、名門として知られる「大森テニスクラブ」の基盤となりました。