しかし体験から得られる知識にはひとつだけ問題があります。それは人間の“生”は有限であり体験の数に限りがあるということです。人生が無限であれば、絶え間なく試行錯誤を繰り返し不動の知識を得ることが可能となりますが、私たちが仕事を通じて得られる体験はそれほど多くはありません。長い人生の中、人生を大きく左右するような体験はそれほど多くはないでしょう。それだけに貴重なものとなるのです。
農業分野での体験を例にとってみましょう。新しい栽培方法にチャレンジしようと種を蒔き、水をやり、肥料を与えます。ただし収穫までのサイクルが長いため1年に一度しか体験できない場合もあります。試行錯誤を繰り返し、新しい栽培方法を試しながら安定した収穫にたどり着くまでに何十年もかかったという話も耳にします。
気が遠くなるような話です。私も10年以上農業分野にかかわった経験から、それがいかに大変な作業であるかを実感しています。しかし農業分野に限ったことではなく、得られた知識をもとに何かに挑戦して結果に至るまでに何年も要することは、ごく当たり前の話です。気長に取り組む覚悟が必要といえるでしょう。
次は知識です。私たちは体験を通して得られる知識に限りがあることを知り、それを書物で補おうとします。自分のペースで得られる手軽な方法ですし、最近は書物と同等な知識を新聞やテレビでも得られます。最近の若者は新聞を読まないといいます。彼らにとってインターネットが新聞の代わりを果たしているようです。
このように新聞、テレビ、ネット、フェイスブック、ツイッター、LINEなど情報の入手チャネルは多様化していますが、本質的には書物から得られる知識と変わりはありません。
図1は2005年時点の流通量水準を100に指数化した上で産業別にデータ流通量の経年推移を示したものです。2005年を100とした場合、2012年で製造業は431、建設業は576、運輸業は632となります。不動産業に至っては1310と情報量は途方もない数字になります。全ての産業が情報産業に近づいているといっても過言ではありません。
数年前の日本では電車に乗れば大半が眠っていましたが、いまやほとんどの人が携帯電話に向かっています。片ときも情報から離れることができません。情報を見て考えているというより、情報を眺めているという様相です。
情報化はすさまじい勢いで拡散しています。昔はあるテーマについて調べようと思った際、そのための書物を探すことさえ大変な作業でした。図書館に足を運ぶか、書店に行って探すしかありませんでした。私の学生時代、卒論のテーマに関する書物の場合は、教授から出版社を紹介され、担当の方に相談に乗っていただき探し当てたものです。そのために費やした時間は相当なものでした。
それがどうでしょう。今は、キーワードをひとつ入れるだけで国内外問わず、該当する書物をリストアップすることができます。関連本を知りたい場合もあっという間に見つけることができます。しかも国内の書物であれば翌日には手元に届く場合もあります。情報と物流システムの進化は革命的であり、その恩恵は計り知れません。
しかし、ものごとには正と負の面があります。情報化社会の弊害は人々がものごとを深く考えなくなったことです。なかば条件反射的に意見を述べる人が増えているのではないでしょうか。フェイスブック、ツイッター、LINEで起こる数々の事件はそんなネガティブな面が投影されています。“情報裕福・思考貧乏”という現象が起きているのです。
ネットに接続するとわれわれは、とおりいっぺんの読み、注意散漫であわただしい思考、表面的な学習を行うよう、環境によって働きかけられるのだ。(中略)ネットの有する感覚刺激の不協和音は、意識的思考と無意識的思考の両方を短絡させ、深い思考あるいは創造的思考を行うのをさまたげる。(ニコラス・G・カー著、篠儀直子訳『ネット・バカインターネットがわたしたちの脳にしていること』:青土社)
たとえ知識を手にしても、いざそれを行動に移したら事前に想定していたこととは異なる結果を迎え、困ることがよく起こるということを意味しています。そうならないためには時間をかけて知識を自分のものとしなければなりません。
ネット上で展開されている情報の多くは十分な時間をかけずに発信されているため、ものごとの一面しか語っていないことが多いものです。そうした情報だけを頼りにしていては判断を誤る危険性も高くなります。その意味ではネット社会がどれほど進展しても、書物の価値が損なわれることはありません。