旧来型組織の改革が進んでいくなか、なかなか変わらないと揶揄される「教育現場」。しかし、常識に捉われず改革を進めている千代田区立麹町中学校の手法は、あらゆる組織の改革にも通じると話題を集めています。本連載は、千代田区立麹町中学校長・工藤勇一氏の著書『学校の「当たり前」をやめた。』(時事通信社)から一部を抜粋し、麹町中学校の「学校改革」について紹介していきます。今回は、「すべての生徒が楽しめること」を目標に生徒自身が考えたという体育祭について見ていきます。

体育祭の「クラス対抗」を生徒自身が廃止

「宿題」「定期考査」「固定担任制」の三つは、見直してきたものの中で、反響が大きかったものですが、その他にも見直しをしたものはたくさんあります。

 

生徒たちが自ら考え、判断し、生徒会の中で話し合って廃止が決定されたものもあります。体育祭における「クラス対抗」の廃止がその一つです。その理由も「目的」を達成する「手段」として、適切ではないと生徒たち自身が判断したからです。

 

「クラス対抗」をなくすという判断をした生徒たちはとても立派だと思いました。特に、代々、続けられてきた「全員リレー」をなくすことについての議論には素晴らしいものがありました。

 

校長としての私は、生徒たちに体育祭について、たった一つのミッションを示しました。それは「生徒全員を楽しませること」というものです。運動が必ずしも得意ではない生徒も、また、体育祭を楽しみにしている生徒も、全員が楽しめるものにしてほしいと生徒たちに話しました。

 

生徒たちは、まず「全員リレー」を行いたいかどうかについて、学年の生徒全員にアンケートを取ったのですが、9割の生徒が全員リレーを「やりたい」、1割の生徒が「やりたくない」という結果になりました。今までであれば、この時点で多数派である「やること」を選択したことでしょう。しかし、リーダーたちは、ここからさらに話し合いを続けたのです。

 

彼らが注目したのは、1割の生徒たちの「やりなくない」理由でした。そもそも運動が苦手で走りたくないとか、女の子に抜かれるのは恥ずかしいといった、少数派の意見を取り上げながら、最上位目的である「生徒全員を楽しませること」を達成するためにはどうすればよいかを考え、何度も何度も話し合いを続けていきました。その中で、「全員リレーを選択しない方が全員のためになる」という考えに変化していったのです。その時点では多数決を取るまでもなく、当初9対1だったものが、0対10になりました。

 

最上位の目的に戻って話し合いを続けることで、こうした結果を生み出すことができたのです。彼らは、この一連のプロセスを通して、その後の人生で何度も繰り返し発揮することができる大切な力を学んだのだと思います。私は、こうした結論を自ら生み出した生徒たちを、とても誇りに思っています。

 

そもそも、運動会や体育祭の目的とは何でしょうか。

 

もし、「競争心を養う」ことや「運動能力の優劣をつける」ことにあるのなら、「クラス対抗」は適切な手段なのかもしれません。しかし、私は、そうした目的の下で運動会・体育祭を行うべきではないと考えています。

 

本校の体育祭は、「生徒全員を楽しませること」を最上位目的としています。その実現に向けて、校長2年目の2015年度から生徒会の主催行事に変更しました。実施競技から運営に至るまで、そのすべてを生徒たちに委ねています。

 

教員にとっても、最上位の目的の達成に向けて支援することが明確になりました。「行進の列が乱れている」「体操の指先が伸びていない」などと、まったく別の次元の目的にこだわって生徒を指導する教員は今は誰一人いません。

 

「全員が運動を楽しむこと」を目的として、生徒会と体育委員が中心になって練り上げた体育祭スローガンは「With Smile~『楽しい』が聞こえる体育祭~」でした。プログラムは、「スウェーデンリレー」(50メートル、100メートル、150メートルと距離が伸びるリレー)「波乗りジョニージェニー」(「いかだ流し」。生徒が中腰になって並ぶ背中の上を駆けていく競技)「台風の目」(長い棒を4人で横に持って一斉に走り、ポールを旋回して戻ってくる競技)「ピコピコハンマー騎馬戦」など、バラエティに富んだものとなりました。チーム編成は「東西対抗」。クラスを解体して、「1日限りのチーム」で競い合うという形です。

 

生徒の中には運動が苦手で、運動会や体育祭が憂鬱な気持ちになる生徒もいます。大縄跳びや全員参加のリレーなどでは、自身のミスが原因で周囲に迷惑をかけてしまうこともあり得ます。「クラス対抗」の場合、そうした失敗でクラスの仲間から責められ、人間関係にひびが入ることもあります。

 

「全員が楽しむ」ためには、運動が苦手な子にも居場所を作る必要があります。もし「クラス対抗」の形で勝敗を意識すれば、勝ったクラスを除く大半の生徒は悔しい思いをし、運動が苦手な子は肩身の狭い思いをします。当然、「全員が楽しむ」ことなどできません。

 

その点で、3年生が自分たちで、それまでの体育祭とは異なる形を自ら考え、選択し、クラスを解体して、「1日限りのチーム」で競い合い、終わったらそこで解散という仕組みを考えて実行したことは、とても素晴らしいことでした。これでどの生徒も喜びを感じることができて、悔しさがあっても、後を引くことはありません。

 

これまでの学校教育では「規律」や「団結」が尊ばれ、私自身も、チームが一丸となって何か達成するといったストーリーに感動してきました。リスクの大きい組体操が、いまだ多くの学校で行われるのも、そうしたことの表れではないでしょうか。

 

ラグビーではよく「One for all」(一人は皆のために)という言葉が使われますが、かつて日本代表で活躍した故・平尾誠二氏は、この言葉を大切にする一方で「個々人が自律していないと、勝利は得られない」と指摘していました。私もまったく同感です。個人に自己犠牲を求め、個性を認めないような組織は、本質的に強くなれないと思います。

 

また、私は野球が好きなのですが、「野球は突き詰めればチームワークのスポーツではない。1対1のスポーツだ」とよく生徒に話していました。ピッチャーとバッターの2人が、「打たせてなるものか」「絶対打ってやる」という強い思いの中で勝負する、このことを楽しめなければ、野球をやる意味はありません。本当に優先すべきものを忘れてはいけないと思います。

 

学校における体育の目的については、技能を高めることや競争心を養うことよりも、運動の楽しさを求めることの方が大切だと考えています。スポーツは自分の人生を楽しませる、友達のようなものであってほしいと思っています。

 

2018年5月。本校の体育祭はとても感動的なものになりました。閉会式では、感動のあまり泣き出す生徒もいました。普段は大きな声で歌うことがない校歌斉唱ですが、応援団の一人が壇上に上がって全身を使いながら吹奏楽部を指揮し、みな、誇らしげに、それぞれの楽しさを全身で表しながら、ノリノリになって、壮大な歌声が校庭に響き渡りました。私は本当にびっくりしました。生徒たちが、とても誇らしく、学校の原点は、こういうものではないかと感じ、うれしくなりました。

 

最後の校長講評では、私は、もはや何も言うことがなく、「やっぱり体育祭は、生徒たちのものだなあ」と、これまで最も短い言葉を生徒たちに伝えました。それ以外に言うことがなかったのです。本当に充実した、うれしい時間でした。

 

自分たちの体育祭を作り上げた3年生の素晴らしい努力をたたえるとともに、この体育祭を少しずつ自分たちのものに作り変えてきた代々の卒業生達に深く感謝の気持ちを覚えました。

教室の壁に貼った「目標」に意味はあるのか?

ここでは目標・目的の在り方を考えてみましょう。

 

前項目で述べてきた体育祭の目的のように、目的は、それ自体が機能していないと意味がありません(図表)。学校にとって、教育目標はどのような生徒を育てていくかを示す最も大切なものです。教育目標が「お飾り」になっているようでは、よい学校はつくれません。

 

[図表]目的と手段

 

教育目標を定める際に押さえておきたいことは、そもそも何のために合意形成を図るかです。

 

 

本校では、「世の中まんざらでもない! 大人って結構素敵だ!」ということを教えることが最上位の目的です。この目的の下に、「自律・貢献・創造」があり、その目的に向けて、本校の「目指す生徒像」があります。

 

そもそも学校は、子どもに目標を書かせるのがなぜか好きな所です。年度の最初、夏休み前、2学期の最初など、節目ごとに目標を書かせる教員もいます。教室の壁が、子どもたちが書いた「学期の目標」で埋められているような光景を目にしたことのある人はたくさんいるでしょう。

 

小学校高学年にもなれば、周りの目を気にするようになります。自分が書いたものが周りに見られることを前提に、本当の目標を書くことができるのでしょうか。担任と子どもたちの関係が素晴らしく、自己開示ができる環境がある場合はまだよいのですが、一般的には「忘れ物をしない」「遅刻をしない」といった、無難な、しかしあまり意味のない目標がクラスの大半を占めてしまっているように思います。

 

そもそも自分の目標を立てるに当たり、その目標を他人に見せる必要はありません。誰かに言われて目標を立てるものでもありません。自分が達成した目標を、自分だけが分かる方法で、自分のタイミングで作るのがよいのですから。

 

もちろん、目標を立てること自体を否定するわけではありません。

 

子どもたちが出ていく社会のことを考えてみましょう。例えば、企業において、会社の経営目標や部署ごとの目標が立てられます。国家公務員や地方公務員も、評価との関係であらかじめ目標を立てます。これらの目標は、時期が来れば達成率や成果が検証され、それが本人の評価や、事業活動の改善等に生かされます。

 

しかし、学校においては、子どもたちが立てる目標は、ややもすると「立てただけで終わり」のスローガン的になりがちです。教員の中には、「目標を立てる」こと自体に価値があると思ってしまう人もいますが、それこそが「手段の目的化」です。

 

学校の「当たり前」をやめた。 生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革

学校の「当たり前」をやめた。 生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革

工藤 勇一

時事通信社

宿題は必要ない。固定担任制も廃止。中間・期末テストも廃止。 多くの全国の中学校で行われていることを問い直し、本当に次世代を担う子どもたちにとって必要な学校の形を追求する、千代田区立麹町中学校の工藤勇一校長。 …

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