旧来型組織の改革が進んでいくなか、なかなか変わらないと揶揄される「教育現場」。しかし、常識に捉われず改革を進めている千代田区立麹町中学校の手法は、あらゆる組織の改革にも通じると話題を集めています。本連載は、千代田区立麹町中学校長・工藤勇一氏の著書『学校の「当たり前」をやめた。』(時事通信社)から一部を抜粋し、麹町中学校の「学校改革」について紹介していきます。今回は、本来学校がもつべき機能について考えていきます。

今、学校に求められる機能とは?

前回(関連記事『中学校長が不登校の生徒に「学校に来なくていい」といった理由』)で、「学校に来る」こと自体は、社会の中でよりよく生きていけるようにするための一つの「手段」にすぎないとお伝えしました。では、「手段」の一つである学校は、子どもたちがよりよく生きていくために、どのような機能を担うべきなのでしょうか。

 

社会では、「コミュニケーション」と「経済活動」を行うための2つのスキルが必要です。学校はこうしたスキルをしっかりと身に付けさせていきたいものです。特にコミュニケーション能力は、障害や発達の特性の状況に応じて、自分なりの方法を身に付けていくことが求められます。

 

学校の機能を単純化してみると、二つのポイントが考えられます。教師の立場から考えれば、①何を教えて(カリキュラム)、②どう教えるか(教え方)であり、生徒の立場から考えれば、①何を学んで(カリキュラム)、②どう学ぶか(学び方)です。

 

このことについて考えるには、歴史をさかのぼってみるのが分かりやすいと思います。今の学校の原型は明治維新以降に作られましたが、それよりもさらに前、江戸時代にまで戻って、教育を考えてみましょう。

 

江戸時代の寺子屋のカリキュラムと学ぶ方法は、とても理にかなった教育であったと私は思います。「①カリキュラム」については、「読み」「書き」「そろばん」が中心で、まさに実社会においてコミュニケーションや経済活動に結び付いた知識・技能でした。武士の子はもちろん、商人や職人、農民の子に至るまで、多くの寺子(子どもたち)が「読み」「書き」「そろばん」を学び、今よりもはるかに若い年齢で社会に出て、家計を助けていました。

 

「②教え方・学び方」については「自学と学び合い」が中心です。教師が現在のように大勢の生徒に一斉授業で教えることはありません。分からないことがあれば友だちに聞いたり、教えたり教えられたりしながら主体的に学んでいました。

 

実はこれは、世の中の営みそのものです。つまり、社会に出てからの大人の学び方と、子どもたちの学び方は同じだったのです。今のように一斉授業の中で一方的に情報を受け続け、ただ丸暗記するような勉強方法ではありません。また、「これをやりなさい」「あれを勉強しなさい」と一方的に押し付けられることもありませんでした。学びは、人に頼るものではなく、自分で分からなければ調べたり考えたり、それでも分からなければ聞くなどしました。当時は、「対話」が当たり前だったのです。まさに「学びのスタイル」が「社会でのスタイル」なのです。

 

私たち大人は仕事をしていく過程で、日々多くのことを学んでいます。学校においても同じです。教師同士も学び合っています。その学びの多くは、日々のちょっとした会話を通じて、経験が豊かな先生から新任教師へ「こうしたらいいよ」という方法を伝えるコミュニケーションを介して行われています。研修などを除けば、私たちが職場で必要なスキルを、講師による一斉講義形式で座学で学ぶということはありません。これは民間企業においても同様でしょう。

学校教育は「アクティブ・ラーニング」に変えるべき

新学習指導要領では、「アクティブ・ラーニング」(主体的・対話的で深い学び)が求められています。私は、学びは、そもそも「アクティブ・ラーニング」に変えていくべきだと考えています。それは、人が社会で生きていくスタイルそのものが「アクティブ・ラーニング」だからです。

 

そもそも、「一方的な講義スタイルで、じっと座って、誰かの話を聞く」ということが世の中において当たり前ではありません。対話し、発信し、受け取り、合意形成を行う。そうした形で物事を解決していく。これが社会の姿なのですから、学校においても、社会の「当たり前」を学べるようにすべきだと考えています。

 

カリキュラムについても、かつての藩校は地方分権で自律しており、江戸幕府にコントロールされてはいませんでした。各藩が自らの経済活動に必要だと考えれば、各地から優れた人を招いてきて講義を行ってもらうなど、独創的で自律した学びを行っていました。問題解決能力を日々の活動の中で高めていたのです。これが明治維新以降、優れたリーダーを輩出した一つの理由であったとも思います。

 

寺子屋は私設の教育機関でしたが、就学率は非常に高く、江戸などはもちろんのこと、地方の小都市や農村部でも、多くの子どもが通っていたようです。それは、「社会の中でよりよく生きていけるようにする」という目的に対し、寺子屋が適切な手段だったからだと思います。

 

江戸末期、日本の識字率は非常に高かったとも言われています。それは、寺子屋で培われた知識・技能が日本の隅々まで浸透していたからだと思います。そうした基盤があったからこそ、明治期の奇跡的な産業的発展ができたのでしょう。

 

ところが、明治維新以後、日本は西洋の学校教育制度をモデルとして、まったく新しい公教育制度が整備されました。そこでは、教員による一斉講義形式の授業が行われ、カリキュラムも教科型へと転換しました。その結果、実社会の営みと離れてしまい、学校へ通う子どもたちの生活実態や、学ぶ内容と意義を家族が認められないことなどがあり、しばらくの間、就学率が長く低迷することになったと聞きます。子どもたちが学校へ行かなかったのは、明治期の学校が「社会の中でよりよく生きていける」ための手段として、適切でないと感じたからだと思われます。

 

近年、不登校の子どもたちの数は増加傾向にあり、そのありようも複雑化しています。もしかすると、明治期と同じく、学校に行く意義を見い出せなくなっている子どもがいることの表れかもしれません。

 

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