旧来型組織の改革が進んでいくなか、なかなか変わらないと揶揄される「教育現場」。しかし、常識に捉われず改革を進めている千代田区立麹町中学校の手法は、あらゆる組織の改革にも通じると話題を集めています。本連載は、千代田区立麹町中学校長・工藤勇一氏の著書『学校の「当たり前」をやめた。』(時事通信社)から一部を抜粋し、麹町中学校の「学校改革」について紹介していきます。今回は、生徒同士のトラブルに対する教師の関わり方と、リーダーを育てる指導について考えていきます。

「対立を自力で解決する力」を奪ってはいけない

トラブルを学びに変える

 

手段と目的の不一致、手段の目的化は、日々の教育活動においても、よく見られます。

 

例えば、2人の生徒がけんかをしていたとします。この場面で、指導のゴール地点をどこに置くべきでしょうか。多くの教員は「2人を仲直りさせること」と答えるでしょう。しかし、「2人を仲直りさせること」をゴール地点に置くと、教員は積極的に仲裁に入って、相互に謝罪をさせ、握手をさせるなど、表面上の和解に意識が向いてしまいがちとなってしまいます。実際、私はそうした指導をたくさん見てきました。無論、こうした指導によって、表面的に問題は解決したことになりますが、実は、本質的には何ら解決になっていません。

 

ここで大切なことは、「トラブルをどう学びに変えるか」です。これが最も上位に来る「目標」となります。そして子どもたちがトラブルを学びに変えていく過程において、大人である教員が適切に関わり、大人に対する信頼感を増していくことが大切です。

 

従って、「主体的に仲直りするプロセスを体験させる」ところに指導のポイントを置く必要があります。

 

トラブルを起こした当時者は生徒自身なのですから、周りの大人や教師が解決してくれると感じさせてはいけません。生徒自身がどうすればよいのか、自分の頭で考えるようにならないといけないのです。そうしないと、2人の生徒はせっかく起きた「対立」を、自分たちの力で解決する貴重な機会を失ってしまうことになります。

 

また、もしひどいけんかであったとして、たとえ、相手を「許せない」と思ったとしても、もし許さないのであれば、「許さないことによって起こる新たなリスクは自分がずっと負うことになるよ」という言葉掛けも大切です。その自覚を持つようになると、子どもたちは自ら考えて、解決の道を選ぼうとします。

 

実社会では、周囲の人間と対立することが多々あります。複数の人間が集まれば、見解の相違が出るのは当然のことで、その対立自体はごく普通のことで、悪いことではありません。問題は、対立をどう解決していくかです。この力が備わっていないと、対立そのものを恐れて自分の意見を述べられなくなったり、対立した時点で関係性が終わってしまったりすることになります。

 

子どもたちは元来、自分たちで問題を解決する力を宿していると信じています。

 

けんかをした場合も、気を付けて見ておく必要はありますが、必要以上に介入せず、放っておけば、時間をかけて自分たちで関係性を修復させていくものです。教師はそのプロセスをしっかりと見守り、適切なタイミングで意味のある支援を行っていきたいものです。大人の役割は、子どもが一人で越えられないハードルに出会ったときにしっかりと越えさせてあげるように支援することです。

 

ちなみに、大きなトラブルを起こした生徒の保護者に学校に来てもらって、私が話をするときには、いつもこんな話をしています。「このくらいの年頃になると、親が何か言ったくらいで、子どもは変わりません。でも、こうしたトラブルこそ、人生の教訓を教える大きなチャンスです。私たち大人の出番です。どう『お灸をすえるか』を一緒に考える作戦会議をしましょう」と、まず、保護者と教師が同じスタンスで、一緒に考えましょうと言います。

 

そこで別室で控えさせておいた生徒を校長室に呼び込んで、保護者と教師が生徒の支援者であることが分かるように話をしていくと、次第に生徒の様子が変化していきます。保護者には、学校を批判したりするのではなく「当事者意識」を持ってもらうことが何より大切だと考えます。

 

教員の多くは、早期に、表面的に、仲直りをさせようとしがちです。

 

結果として、子どもは対立を自力で解決する力を失い、対立が起きたときに「誰かが何とかしてくれる」と考えるようになってしまいます。さらには、問題を解決できないときに、「環境が悪い」「周りが悪い」などと誰かのせいにしようとするようになってしまうのではないでしょうか。よかれと思って仲裁に入った教員が、「うまくいかないのは先生のせいだ」と非難されてしまう。そんなことではいけません。

教員が変わらなけば「優れたリーダー」は育てられない

リーダー指導は教員の仕事

 

昨今は「リーダー育成」が教育上の課題として挙げられていますが、教員が子どもたちに同質性を過剰に求め、フォロワーになることを要求しているうちは、リーダーは育たないでしょう。リーダーを育てるのは、とても難しいものです。私も生徒たちから、リーダーの難しさを教えられてきました。

 

あるとき、生徒が「周りが自分の話を聞いてくれない、だれもついてきてくれない」と相談に来たことがありました。一生懸命頑張るその子を励まそうと考え続けていたときに、ふと、こんな言葉が出てきました。「それはそうだろう。人はそもそも動いてくれないものなんだよ。動かない人を動かせるようになってこそ、本物のリーダーだ。初めは誰もできないよ」

 

彼は、その言葉を聞いて、ほっとしたようでした。

 

「それでね、動かない人を動かすには『戦略』が必要なんだよ。そのためには自分を知り、相手を知り、どの言葉を選んで、どのタイミングで発するか、さまざまな工夫がいるんだ」

 

その話は、自ら思わず発したものでもありましたが、同時に、自分自身にも言い聞かせるものでしたし、生徒に語る以上、自分がそれができていなければいけないという「覚悟」を迫られるものでもありました。今でもそのときのことを思い出しますし、その後の自分自身の教員人生の指針となる言葉ともなりました。

 

これからの時代のリーダーは、多様化が進む社会の中で、集団をまとめ上げる力が求められると言われています。社会には、コミュニケーションが苦手な人もいれば、人づきあいが得意ではない人もいます。そうした多様性のある社会をありのままに受け入れて、イライラすることなく、自分が何をなすべきかを考え、適切な手段をとることができるようになる力が必要です。

 

同質性を求め、異質な人間を排除したり、教育・指導によって心を変えようとしたりするリーダーは、決して成功できません。優れたリーダーを育てる意味でも、まず教員が、多様性を認め、自らの指導のあり方を見直すところから変えていかねばなりません。

 

生徒を指導する場において、教員はとかく、表面上の「形」を求めたがります。

 

例えば、体育館に子どもたちを集め、誰かの話を聞かせる場面では、「整列しなさい」「静かにしなさい」と大きな声を張り上げます。その結果、子どもたちは深く考えることなく、「先生が怒っているから」「うるさいから」といった理由で整列し、静かにするようになります。これで「形」は整ったことになるのですが、ここで子どもたちには「静かに話を聞く」ことの意義について考える機会が奪われています。ただ言われたから座り、静かにしていただけです。話を聴く態勢を自ら作るということにはつながっていません。

 

そもそもリーダー指導を行うに当たって、子どもたちに「静かに聞きなさい」と指導する際に適切な言葉を選ぶことが大切だと私は考えています。子どもたちが話を聞かないのは、内容がつまらなかったり、自分との関係性が見い出せなかったりするなど、本質的には話し手の問題だと捉える必要があります。

 

社会において、あるいはビジネスにおいて、相手や聴衆が話を聞かないからといって、相手に注意する人などいません。内容として面白く、自分と関係のある興味を引く話をすれば、教員が注意などしなくても、子どもたちは真剣に耳を傾けます。そこで騒いでいる生徒がいれば、生徒同士で注意もするようになります。

 

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