固定担任制で生まれる「勝ち組」と「負け組」
固定担任制の廃止――「チーム医療」型の学年経営を
見直ししたものの3つ目は、1クラス1担任による固定担任制です。
本校では、2018年度から学級担任を固定せず、学年の全教員で学年の全生徒を見る「全員担任制」を採用しています。一人ひとりの教員にはそれぞれ得意分野があります。それを生かすことが、生徒にとって大きな価値につながっていきます。生徒のサインを読み取るのが得意な教員、保護者対応が得意な教員、ICTの活用に長けた教員、さまざまな個性を生かし合うことができる学年運営に変える。それが全員担任制です。
参考にしたのは、「チーム医療」の考え方です。患者にとって、最も適切な医療を行うために、心のケアや、専門性の高い処置を行う病院の取り組みは、学校に置き換えると、すべての子どもに最善の手立てを、学校全体で取るという姿になります。
これまでの固定担任制には、さまざまな弊害が見られます。
例えば、生徒のすべてを1人の担任に委ねることになってしまいがちなため、固定担任制では、子どもたちや保護者にとっての学級の良し悪しは、多くの場合、担任に紐づけられる傾向があります。学級の中で問題が起きれば、子どもたちや保護者は安易に担任のせいにしたり、また担任の方も自分で問題を抱えこんでしまったりする状況が生まれていきます。
今は、学習面から生活面に至るまで、手取り足取り手厚く面倒を見ることがよいものとされ、昨今では、「丁寧な指導」「面倒見の良さ」をセールスポイントにする学校や教育委員会も少なくありません。しかし、大人が先回りをして、手を掛けすぎて育てられた子どもの多くは、自律できなくなっていきます。そして、自分では解決できない問題やトラブルに直面すると、うまくいかない原因を自分以外の周りに求め、安易に他人のせいにしてしまう傾向があるように思います。
固定担任制の下では、学級担任は、クラスの子どもたちに対し、良い意味でも悪い意味でも責任を持ちすぎるところがあります。極端に言えば、自分の学級の生徒の人生すべてを背負っているかのような気負いがあります。加えて、「クラスの子どもに好かれたい」という気持ちも強いものです。その結果、指導は必要以上に手厚くなります。そして時に、極端になります。
自律することを学ばない子どもは、物事がうまく行かなくなると、担任教員に責任転嫁をします。勉強が分からなければ「授業が分かりにくい」と言い、忘れ物をしたら「聞いていない」と言い訳をする。担任が「好かれたい」と思って行った手厚い指導の結果がこれでは何とも皮肉な話です。
生徒たちの間にある「勝ち組」「負け組」の意識をなくすねらいもありました。学年の教員集団は、多くの場合、年齢・キャリアの異なるメンバーで構成されます。力量にも教員の個人差が出てくるため、よくまとまったクラスと、そうでないクラスが生じがちです。その結果、子どもたちの間で、「勝ち組」「負け組」の意識が生じます。中学校は教科によって教員が変わりますが、すべての教科を担任が教えている小学校の場合は、こうした意識は、より顕著ではないかと思います。
私は中学校だけでなく、小学校においても学校規模と専科教員の配置次第で、「全員担任制」を実施できるのではないかと考えています。実際、本書(『学校の「当たり前」をやめた。』時事通信社)第4章で紹介する、木村泰子先生が初代の校長を務められた、大阪市立大空小学校は、固定担任制を廃止して「全員担任制」を導入しています。
固定担任制を廃止すれば、「学級王国」と言われるような問題もなくなるに違いありません。一部の勘違いをした教員が強圧的な指導で子どもたちを支配するようなこともなくなり、教育活動の透明性は高まります。不適切な指導や体罰も減るでしょう。加えて、学級崩壊が起きるリスクも下がります。学級崩壊は、まとまりのあるクラスとないクラスとの格差が大きいときに起きやすいからです。幸福感と同じで、他と比べることで自分たちの中に不平不満が高まり、反発が生まれがちなのです。
また、中学校では、定期考査の「クラス平均」を公表することもありますが、そうした情報がクラス同士の対抗心をあおり、時に、優越感や劣等感を助長している側面もあると思います。
生徒たちの間に、こうした意識が生じることの弊害は小さくありません。保護者の間では、担任の「アタリ」「ハズレ」が話題になることがあるようですが、「ハズレ」で「負け組」になった生徒は、どんな気持ちになるのでしょうか。
学年内にそんな格差や、残念な思いを持つ生徒を生み出さないためにも、固定担任制を廃止する意義は大きいと考えます。
正直に言えば、私自身、教員になりたての1、2年目の頃は、クラスを「勝ち組」にすることに一生懸命に取り組み、クラスがまとまることに喜びを感じていました。
自分のクラスさえまとまっていれば、それでよいと思っていたわけではありませんが、今思えば、他のクラスの生徒のことは、優先順位が低くなりがちでした。年度が替わって担任を外れた生徒から「工藤先生のクラスになりたかった」と言われたときは、恥ずかしいことですが、うれしかったのを覚えています。
そうした意識に変化が生じたのは、教員3年目のことでした。
私より7つほど年上の理科の教員と同じ学年を組むことになりました。実に尊敬ができる人で、考え方が柔軟、旧来型の学校教育を必ずしも良しとはしない感性をお持ちで、私とはとてもウマが合いました。
その人と学年を組むうちに、私は「この先生のクラスに勝っても全然うれしくない」と自覚するようになりました。当時、その学年は2クラスでしたが、両方のクラスをよくしたいという思いが強くなり、担任制のあり方について考えるようになりました。
もちろん、固定担任制を廃止しても、クラスという枠組みは残ります。しかし、本校では生徒たちの間で「勝ち組」「負け組」の意識は薄まり、隣のクラスと比較するような生徒もいなくなりました。そうした様子を見て、改めて、担任教員はクラスの象徴なのだとつくづく思います。
「固定担任制の廃止」を実施した結果
「固定担任制を廃止した」と言うと、「そんなことが可能なのか」とよく聞かれます。制度を解説すると、公立学校の教員は「公立学校義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」によって、児童生徒40人(小学1年生のみ35人)につき教員1人が割り当てられることになっています。
そのため、1クラスの最大人数は40人で、41人クラスというのは原則として存在しないことになっています。1学年の児童生徒数が80人なら40人×2クラスとなり、81人なら27人×3クラスとなります。すなわち、80人なら2人の教員が、81人なら3人の教員が、学年の担任として割り当てられます。この点は、基本的に全国どの地域の学校も同じです(もちろん、自治体独自の施策で少人数学級を実現しているところはあります)。
一方、こうして割り当てられた教員を、どのように配置するかは、学校裁量に委ねられています。児童生徒81人なら「3クラス」という枠は基本ですが、教員配置は自由にして構わないことになっています。
本校の場合、1・2年生には各6人の教員が配置されており、その全員が、4つあるクラスの担任という立場で、クラス運営に携わっています。加えて2人の非常勤講師が、授業を担当するだけでなく、クラス運営に関わることができるようにしています。これは千代田区教育委員会と相談をして制度を整えました。
第1学年の例を挙げれば、「学級活動」や「道徳」の授業は、2人体制で各クラスへ出向いています。さらに「道徳」については、1人の教員が4クラスを巡回し、自らの得意とする授業を順々に実施していくこともあります。生徒たちにとっては、幅広い教員と関わりを持ち、価値観を広げることができるメリットがあります。また、三者面談は、保護者と生徒が教員を指名する形で行っています。
「全員担任制」を進める上で大切なのは教員間の連携です。どの学年も週に1回会議を行い、日常においてもコミュニケーションを取り合いながら、情報共有を図っています。全員担任制にして、逆にコミュニケーションが劇的に良くなったと教員は話しています。宿題にせよ、定期考査にせよ、固定担任制にせよ、長い学校教育の歴史の中で当たり前のように存在し、誰も疑問を持たずに続けてきたものです。
制度や仕組みは、時代とともに変えていく必要があります。
学校教育の上位目的に照らし合わせて、最適な手段ではないと判断したら、たとえ100年続いてきた仕組みであったとしても、変えようとする柔軟性を、校長をはじめとする教育関係者は持つべきだと考えます。