「部長、それで六月の役員人事ですけどね・・・」
TOEICのスコアは、惨憺(さんたん)たる結果だった。九九〇点満点の三〇〇点台で三十人の社内受験者中、最下位から二番目だった。英語は、それほど得意ではなかったが、卒業旅行はイギリスに行き、ロンドンからバーミンガムまで一人旅をしてきた。それが、聞き取れないだけでなく、文章もまともに読み取れないというのは情けない。
そもそも情けないことばかりが最近続いている。と、また内にこもって悶々と悩む日々の間にも、なんとか仕事はこなしていた。
「本瓦斯リビングって、カルチャーセンターもやってるんですね」
新しくできた関係会社のパンフレットを久保先輩と見ていた涼太は、おっと驚いた。
「料理教室にパソコン教室に英会話教室ですか。これ、同じビルに本瓦斯スポーツのフィットネスクラブも入っていますね。こっちは、ジムにスタジオにプール。駅のすぐ南側で、この近くですね」
「ガス会社にとって、料理教室や温水プールは大事なの。だって、どっちもガスを使うでしょ。ガスコンロだって売れるしね」
なるほどと頷いて、涼太はひらめいた。よし、英会話スクールだ。こうなったらマンツーマンレッスンだ。
その日の夕方、予約をとって行った英会話教室で、最初の体験レッスンを受けて、そのまま入学を決めた涼太は、珍しく気分が高揚していた。
「よし、ここまで来たら、フィットネスクラブも見学だ」
勢い込んで同じビルの下のフロアにあるフィットネスクラブの門を叩き、社員割引で早速入会した。
「ふうん、それで英会話とフィットネスと両方通っているわけ?」
久保先輩が枝豆をつまみながら、涼太に話しかけてきた。
五月の下旬になって、ようやく川崎課長はじめ涼太ら数人の四月入部組の歓迎会が駅前の居酒屋であった。一通り挨拶すると、後は単なる飲み会である。
「部長、それで六月の役員人事ですけどね。新社長は、唐沢(からさわ)専務の持ち上がりで決まりとして後任の専務ですが、やはり今の波岡(なみおか)社長のご令嬢の美奈子さんが、執行役員から一気に専務ですか?」
黒縁眼鏡に髪を七三に分けた銀行員のような顔立ちの川崎課長が、赤ら顔を酒で一段と赤くした山下部長に話しかけている。
「いや、それはわからんぞ。美奈子さんは、まだ三十代だろ。ひとまず取締役にはなるとしても常務どまりじゃないか」
「すると、専務は、やはり静岡組ですか。今の常務クラスから上がるとして・・・」
「いや、平取(ひらとり:平取締役)からの抜擢もあり得るぞ。総務部長の河津(かわつ)さんとか」
「ははあ、山下部長は、確か島田のご出身でしたね。河津さんの後とか、十分あり得ますね」
山下部長は、まんざらでもない顔で首を振った。
「いや、君。確かに島田は大井川の川向うだが、まあ傍流だよ、傍流」
酔っ払っているせいか、だんだん声が大きくなってきた。歓迎される立場として部長の近くに座らされた涼太も、わけがわからないまま聞き耳を立てる。
「うちはさ、もともと遠州瓦斯と駿州瓦斯だろ。それぞれの創業者が波岡家と唐沢家というわけだ。そもそも波岡家は浜松の豪商で、唐沢家は静岡の資産家。それが交代で本瓦斯の社長を務めるならわしさ。代々続いて、今の社長の波岡徳太郎は五代目で、この六月で引退して会長に退く。次に唐沢一樹(かずき)、今の専務が六代目の社長に上がる。一人二十年近く社長をやる。この社長交代に合わせて、役員も部長も浜松派と静岡派で一斉に入れ替わるという寸法さ」
久保先輩が横からこっそり教えてくれた。
「え、美奈子さんっていうのは?」
「今の執行役員秘書室長。波岡社長の実の娘で一人娘だ」
「ふうん、深窓の令嬢ですね」
「そうでもないかな。大学出た後、大手商社のエネルギー部門にいて、そこで知り合った旦那の転勤に合わせて欧州の電力会社に転職。本瓦斯には、五年前に戻ってきて、初め原料調達の後、営業で実績上げて、今は秘書室。一通りこなして、評判は悪くないみたい」
「ご主人は、どんな方ですか?」
「ああ、旦那は東西電力の御曹司で、いま商社のLNG(液化天然ガス)担当のグループリーダー。東京と浜松に家があって、確か子どもが一人いる」
「久保さん、詳しいですね」
「社員五百人くらいの会社に十年以上いれば、誰でもこれぐらいのことは知ってるよ。今でも影の人事課長を自任している川崎課長に聞いてみろよ。この手の話なら一晩中語ってくれるよ」
なるほど、と涼太は妙に納得した。そう言えば、川崎課長は静岡の出身だ。本瓦斯は、本社は浜松だが、もう一つの重要拠点である静岡には本部がある。川崎課長が盛んに静岡に出張するのは、自分の社内人脈づくりの狙いがあるのかもしれない。
「亡くなった。唐沢専務が亡くなった!」
六月初旬のある日、涼太は、本瓦斯リビングの社員と楽器工場の前にあるクリニックに出かけた。社員が十人ほど急に食中毒にかかったので、助っ人を頼むとのSOSである。
この種の依頼はきりがないので普通は断るが、食中毒と聞いて涼太も腰を上げた。新しくできたクリニックに大型のレンタル水槽を設置するという仕事である。手早く砂利を敷き、流木と石と水草でレイアウトを作る。それから、水を入れ、濾過(ろか)装置を設置し、しばらく循環させて様子を見る。
「魚は入れないんですか?」
「まず、魚が住めるような水を作らなきゃダメだ。いま入れたら死んじゃうよ」
「あ、そうなんですか」
涼太は、思わず頷いた。いろんな世界があるものだ。
しばらくすると、白い麻のジャケットにグレンチェックのパンツを合わせたロマンス・グレーの男性が現れた。
「やあ、ご苦労さん。いい感じに仕上がったね。魚を入れるのが楽しみだ」
こちらが院長先生らしい。
「あ、ところで、さっきロータリークラブの会合で小耳に挟んだんだけど、君のところの唐沢専務、昨晩倒れたんだって」
「えっ!」
先日、歓迎会で久保先輩の話を聞いていなければ、何の話かわからなかっただろう。今月末に本瓦斯社長に就任予定の唐沢専務である。
「宴会から帰って、家で倒れたと聞いた。詳しい話は知らないが、どうもいけないらしいね」
どう反応してよいかわからず、曖昧に頷いて、すぐに会社に戻った。
関連事業部は、異様な雰囲気に包まれていた。
山下部長は、相変わらず足を机の上に投げ出していたが、激しい貧乏ゆすりで机が鳴っている。
川崎課長は、ひっきりなしにあちこちに電話をかけていた。
「なんだ。何も聞いてないのか。それじゃ、わからんよ」
そのとき、ふとパソコンの画面を見た山下部長が、椅子からころげ落ちそうになって叫んだ。
「亡くなった。今、緊急メールが入った。唐沢専務が亡くなった!」
唐沢専務の葬儀は、ちょうど梅雨入りした日に静岡市内の大きな寺で行われた。涼太も応援に駆り出されて、駐車場係をやった。参列者の黒塗りの車を誘導し、帰るときは車を呼び出す。
ときおり激しく降る雨の中、同期入社で秘書室の最年少係員をしている笹原(ささはら)が、うやうやしく車のドアを開けて、傘を差しかけていた。参列者が車に乗り込むときは、頭をぶつけないように開いたドアに手を伸ばして、一人ひとりに丁重にお礼を言ってドアを閉めている。驚いたことに、何百人と参列者がいるのに、いま乗り込んだ人物が、どの会社の誰か、ほとんど把握しているようだ。笹原は浜松出身で、同じ高校の同級生だ。
四年あまりの間に、自分と笹原との間に企業人として大きな差が生じているのを涼太は認めないわけにはいかなかった。
六月下旬に株主総会があり、現社長の波岡徳太郎が会長に退いて、その一人娘の波岡美奈子が後任の社長に就いた。あわせて、専務には静岡組のエースと名高い河津取締役総務部長が抜擢され管理本部長を兼務し、その後任にはやはり静岡組の長島執行役員。また秘書室長には浜松組から志田(しだ)執行役員が任命されるなど、大きな人事異動となった。
波岡新社長就任の翌日、社員を集めて訓示があった。涼太は、関連事業部が入る旧本社ビルの会議室のモニターで、美奈子社長の話を聞いた。
「これからエネルギー業界は、未曽有の競争環境に入ります。わが社も生き残るためには、大きく変革していかなければなりません。そのためには、組織も仕事の仕方も皆さんの意識もすべて変えていく必要があります。皆さんのお力添えを期待いたします」
張りのある声で強いメッセージを投げかける印象深い挨拶だった。もっとも、それが自分の仕事にどのように関わるか、涼太には、あまりイメージが湧かなかった。