「今日からお世話になります佐々木涼太です」
今年の桜は少し開花が早いようだ。
徳川家康が在城したことで『出世城』と地元では呼んでいる浜松城の桜は、四月一日にはかなり散っていて、むしろ若葉が目立つほどだった。
出世城と言えば、江戸時代も後半に入って水野忠邦(ただくに)という譜代(ふだい)大名(江戸時代、関ヶ原の戦いの前から徳川氏の家臣であった大名)がいた。幕府内で出世しようとした水野は、将軍や上役に願って石高(こくだか)の多い他の領地から、わざわざ浜松に引っ越して来て、その後、見事、老中筆頭までのぼりつめたという逸話を聞いたことがある。ようするに浜松城主はエリートコース、幕閣の登竜門だったということだ。
この話を、同期会の折に、静岡出身の村瀬という男にしたら、失笑された。
「老中と言ったって、会社で言えば所詮、専務か常務だろ。静岡にある駿府(すんぷ)城は、将軍が引退して住むところ。言ってみれば、社長会長を経た相談役の居城で、浜松とは格が違う」
なるほど、そうとも言えるのか、と一瞬納得したが、だんだん無性に腹が立ってきた。およそ静岡と浜松といったって同じ静岡県の中だけの話で、その僅かの間で競り合ったところで、グローバルには何の意味もない。
「お前、遠州というのは、奈良・平安の昔から遠江(とおとうみ)国ともいって、遠江とは浜名湖のことだ。近江(おうみ)は琵琶湖。つまり上方から見て、近い海が琵琶湖、遠い海は浜名湖。その先は未開の地だ。お前の言う静岡もそうだぞ」
と言わなくてもいいことを言って、同期会の雰囲気を一気に盛り下げた。この論法だと東京は未開の地でもさらに野蛮なエリアということになるが、そこから都落ちして今の自分がいる。涼太は、かえって気分が暗くなった。
もっとも、静岡・浜松論争は、本州瓦斯にとっては単なるお国自慢の言い争いではない、ということがやがてわかるのだが、それはまだ先の話である。
さて、本州瓦斯の本社は、浜松駅に隣接するオーシャンタワーという四十五階建ての高層ビルの中層階にある。高層階は高級ホテルが入り、低層階は専門店や飲食店街となっている。地方都市でこのようなランドマークがあるのは、やはりバブル時代の名残だろうが、涼太は内定式で、このビルの二十五階のオフィスに初めて足を踏み入れたときは、さすがに感動した。
「南に中田島(なかたじま)砂丘と遠州灘が見える。その先は太平洋の水平線だ。反対方向、はるか北に並ぶ山々は南アルプス。その東の端には、富士山が見える。もともと馴染んだ景色とはいえ、まさに新天地だ!」
しかし、残念ながら今回の異動先の関連事業部が、この本社オフィスにあるわけではない。ここは家賃が高いので、役員、秘書室、総務人事部門など本社の枢要(すうよう)な部署が入っているだけだ。営業や庶務経理、システム部門、さらに関連事業部は、昭和時代の昔の本社ビルである駅の南側の古いレンガ色の建物に入っている。
四月一日の朝、涼太が勢い込んで、その古びたビルの三階奥にある関連事業部に出勤していくと、窓際に赤ら顔の太った中年男が、机の上に靴を履いた足を投げ出して新聞を読んでいるのが見えた。やや変人と噂に聞いていた、部長の山下である。
「おはようございます。今日からお世話になります佐々木涼太です」
涼太が挨拶しても、机の上の足は動かない。しばらく無言で新聞を読んでいる。ようやく物憂げに新聞を下ろして、
「ああ、今度、来た人ね。とにかくいろんな会社があるから、訪ねて行って頭を下げて話を聞いて」
と言って、もういい、と顎を上げた。その顎の先に、涼太の上司となる課長の川崎がいた。
「おれも今日、人事からきた。関連会社のリストがあるから見ておけ。今日からしばらく挨拶回りだ」
あ、先日異動の電話をかけてきた人だ。グループ会社の面倒を見るといったのは、ここの仕事のことを自分も含めて言っていたのだ。
さて、渡されたリストを見ると、なるほどいろいろな会社がある。ガス機器の補修会社やプロパンの販売会社があるのは当然として、不動産会社や住宅販売会社のほかに建設工事の会社、ビルの管理会社、警備会社、人材派遣会社、トラック運送、システム開発、保険の代理店に、病院や介護サービスの会社もある。
「この本瓦斯スポーツっていうのは、スポーツ用品の販売店ですか?」
涼太が何でも聞いてくれ、と挨拶してきた古株の久保先輩に聞くと、
「いや、それはフィットネスクラブ」
との答えが返ってきた。
「すみません。ついでに、この本瓦斯リビングというのは、家具屋さんですか?」
「インテリアもやっているけど、まあ、いろいろ」
とずいぶん曖昧な回答だった。
この四十社近くある関連会社の名前と、事業内容と、そこで働く人々の顔を覚えるだけで、まず四月は終わりそうな雰囲気である。
その日の午後から久保先輩の運転で、川崎課長と涼太は関係会社への挨拶と御用聞きを始めた。特に涼太の仕事は、トラブルシューター(問題の調停・解決人)というよりは圧倒的に雑用である。あれが足りない、これが壊れたといった相談から始まって、人の採用、備品の購入、ちょっとしたお金の出入りなどさまざまな相談がくる。ただ、今のところ、それがあまり深刻ではないので助かっている。もっとも、それは単に相談されなかっただけで、万事順調だったわけではないと気づくのは、しばらく先のことである。
課長が勝手に「TOIC」の願書を提出してしまい…
あっという間に四月が過ぎ、五月に入って涼太は急に英語の試験を受ける羽目になった。羽目になったというのは、本州瓦斯では、今年の新入社員から全員受験必修となったTOEIC(トーイック)という英語の試験があり、入社五年目の社員まで希望者は受験してよいというお達しに、元人事部の川崎課長が敏感に反応したのである。涼太の意思も確かめずに、受験希望書を出してしまった。
「申請出しといたから、頑張れよ」
と言われて、試験会場に出向いた涼太だったが、いざ始めて慌てた。
最初の英会話のヒヤリングで、何を言っているのか、さっぱり聞き取れない。そうこうしているうちに、スピーカーから流れる英語の音声の方が、解いている問題よりもはるか先にいってしまい、今どの問題について話しているのかわからなくなった。頭に血がのぼったまま筆記問題に突入し、まったくできないまま時間切れである。
「いやあ、TOEIC久しぶりに受けたけど、勘が鈍っていてさんざんだったよ」
話す内容とは裏腹に冷静な顔つきで余裕を見せる後輩を尻目に、涼太は足早に試験会場を去った。
格闘ゲームに勝った女性の、赤いチャイナドレス
駅前の予備校の教室を借りた試験会場を出て、涼太が向かった先は、本瓦斯不動産の駅前支店である。酒井店長の顔を見て元気を出そうと思ったが、あいにく接客で事務所にはいなかった。そのまま店の前を通り過ぎて、繁華街の方へ向かった。
駅からデパートの裏にある支店の前を抜けてずっと進むと、鍛冶町という小さいながら街一番の繁華街がある。そこに大型のゲームセンターがあった。
涼太は、特にゲームに興味があったわけではない。ただ、なんとなく日常から離れたい気持ちがあっただけだ。
日曜日の夕方とあって、ゲームセンターの前は行き交う人で賑わっていた。その入り口には、太鼓を叩くゲームがあり、若いカップルが音楽に合わせて太鼓のバチをふるっている。
「あ、これって、昔、得意だったやつだ」
大学生時代に付き合っていた彼女と都内のゲームセンターで、ときどき遊んだのを思い出した。たいして深い付き合いではなかったが、大学のクラスの同級生で名字が同じ佐々木だったのがきっかけで知り合い、たまに会って食事をしたり映画を見たりした。
自宅生だったその娘は、頑張って東京のマスコミに就職し、そして社会人になってからは、どちらからともなく疎遠になり音信不通となった。UFOキャッチャーで小さいぬいぐるみを二人でいくつも捕ったが、あれはどうなったのだろうか。
またしても、昔の思い出が暗く湧き上がってきて、それを振り払うようにゲームセンターの中に入っていった。
そして、異様な人だかりを見た。
ふと店内に貼られた看板を見ると、『対戦型ゲームブースオープン企画・eスポーツ※公開イベント』と書いてある。その下に、いくつか番付表があり、最後の対戦相手が『メイリーVSジョー』と貼ってあった。
※エレクトロニック・スポーツの略。電子機器を用いて行う競技全般を指し、一対一の対戦型ゲームのほか、サッカーゲームなどチームプレイで争う競技もある。二〇二二年のアジア大会で正式競技に採用されることから、国内外の関心が高まっている。
何のことかわからないまま、奥へ進むと、モニターを置いた独立した黒いブースが二つあり、その先にかなり大型の液晶スクリーンがあって、黒山の人だかりだった。ブースには、コントローラーをすばやく操作している人影が見える。一人は、茶髪のヤンキー風の若い男だった。その向こうを見ると、髪を後ろに丸く結わえた真剣な面差しの若い女の子の顔が見えた。やや童顔だが、くっきりとした目でモニター画面を見据え、口元をきつく結んでいる。丸く立った襟が真っ赤だと思ったら、なんとチャイナドレスだ。
その瞬間、わっと歓声があがった。大型スクリーンに注目する。
ごつい筋骨たくましい大男が、一気に中国娘との間合いを詰めると連続してジャブを見舞った。それをかがんで避けた娘の顔面に回し蹴りだ。その瞬間、中国娘が跳躍した。
その動きを読んでいた大男は、娘の胸元めがけて必殺の火炎弾を放った。万事休す、と思いきや、ほぼ同時に、娘は、赤いチャイナドレスの裾を翻(ひるがえ)して、反転し、逆に回転蹴りを大男の顔に連続してぶつけた。慌てた大男が体勢を崩して避けようとするところに、稲妻のような光が走り、大男を吹き飛ばした。
ゲームオーバーである。
聴衆の興奮が冷めやらぬ間に、メイリーと呼ばれた赤いチャイナドレスの女性と、ジョーという茶髪のヤンキー男が立ち上がって互いに握手した後、聴衆に頭を下げた。
「全日本ランキングトップクラスのジョーを、ここ浜松で迎え撃ったメイリー、見事な勝利です」
ゲームメーカーが雇ったらしい司会者が、エキサイティングなレポートを続ける。メイリーと呼ばれた女性がマイクを受け取って挨拶した。
「皆さんのお蔭で、ジョーさんに初めて勝ちました。これからも応援よろしくお願いします」
深くお辞儀をしたときに広がったチャイナドレスの裾に光る金の刺繍を見て、涼太は、これから何かが変わっていきそうな予感がなんとなく湧き起こるのを覚えた。