「なんでキャプテンって言われているのですか?」
八月に入って村瀬がチームに加わった。しかし、始動して最初の一カ月のケーキ室の仕事の進捗はすさまじく、村瀬は「ケーキ室」という特急列車に飛び乗ろうとして飛び乗れない様子だった。
「介護ビジネスは、ファイナンシャルアドバイザー※1を雇って入札方式※2で売ろう。こちらは、由紀に任せる。むしろ病院の方が厄介だな。ひとまず、これはと思う浜松市内の医療法人をいくつか当ってみるか。警部、ひとみと組んで回ってくれ。くれぐれも売却情報が独り歩きしないように、慎重にやってくれ」
※1 M&Aを行う事業者が雇う金融の専門家。買収対象事業の調査や売却する相手の選定、相手方との交渉、企業価値の評価などM&Aの手続き全般をサポートする。
※2 M&Aを行う際、売り手企業が多数の候補者を募って提案条件を競わせることを通じて、より有利な条件を引き出そうとする交渉プロセスのこと(逆に一対一で交渉する場合を相対という)。
波多野が、てきぱきと指示を出し始めた。
「さて、涼太。今度、美奈子社長のカバン持ちで清水ガスの岩沼社長に会いに行くが、お前も一緒に来いよ」
涼太は、波多野に言われて、少しびっくりした。いつの間にか、社長の随行として出張ができるようになったわが身を振り返り、戸惑いながらもちょっと胸を張りたくなった。
社長に先行して静岡に行くことになり、波多野と新幹線に乗った。実は、涼太はこの機会に波多野に聞きたいことがたくさんあった。
「波多野さんは、なんでキャプテンって言われているのですか?」
隣り合った席でいきなり涼太に聞かれ、波多野は苦笑した。
「もともとパイロットだったからさ」
今度は、涼太が驚いた。
「え、ファンドマネジャーじゃないのですか?」
「いや、その前の話だ」
「じゃ、エアラインのパイロットですか?」
「ま、そうだが、その前は戦闘機を飛ばしていた」
「それは、日本国内ですか?」
「そう、すぐそこだよ。航空自衛隊浜松基地。そこで、F4Fファントムを改修したF4EJに乗っていた」
「展示飛行のブルーインパルスですか?」
「いや、そこまではいかない。三十過ぎた頃に辞めた」
「でも戦闘機のパイロットになるのって難しいんでしょう?」
「まあな。腕の良さで言えば、一番が戦闘機で二番手がヘリ。後は輸送機とか」
「聞きづらいことですけど、どうして辞めたんですか?」
一瞬、波多野が口ごもった。
「僚機(りょうき)が事故で遠州灘に不時着したのを目の当たりにして操縦するのが怖くなった。そうなるとG(操縦する際に受ける強い重力)も辛くて我慢できなくなった」
「それで、どうされました?」
「エアラインパイロットになった。海外に行きたかったから、アメリカに渡った」
「アメリカの航空会社ですか?」
「そう。コパイ(副操縦士)からキャプテン(機長)になった頃に、会社の経営が傾き、ファンドに買収された。そのファンドから送り込まれた新しい経営陣に見出されて、操縦からマネジメントに転向した。わかりやすく言うと、経営陣と乗員組合の橋渡しをやった」
「日本人が、アメリカの航空会社の乗員組合と交渉するのは大変でしょう」
「そりゃ、そうさ。おれは、基本的に乗員寄りだったが、それでも乗員側の無理な要求は拒絶した。英語もそれほど得意じゃなかったから、何度も厳しい目にあった。でも、リスクの大きさだったら戦闘機に乗る方が上さ。いざとなれば、スクランブル(緊急発進)してドッグファイト(空中戦)だからな」
「それで、ファンドマネジャーですか?」
「そう。ファンドに使われるより、ファンドを動かす方が面白い」
「でも、なぜ浜松へ?」
「浜松の実家の父親が倒れたから。ちょうど自分の管理していたファンドの投資の切れ目とタイミングが合ったので、ここに介護に戻った。おやじは今も入院中で、おれは病院の近くの実家に住んでいる」
「ご家族は?」
「アメリカ人の妻がいたが、しばらく前に別れた。子どもはいない」
波多野は、さすがにうんざりした顔で言った。
「身辺調査は、そろそろ終わりにしようぜ」
涼太は、申し訳なさそうに付け加えた。
「でも、どうして本瓦斯の仕事を受けたんです?」
「うちの父親経由で徳太郎会長に頼まれた。おやじは会長と昔から親しく付き合っていたみたいだ」
「天野警部とは?」
「昔の自衛隊時代からの知り合い。若い頃、東名高速道路で事故を起こしたときに、ずいぶん世話になった。そのときは、交通課にいたが、後に刑事になった。久しぶりに連絡をとったら、もうすぐ定年だと聞いて、チームに入ってくれと声をかけた」
天野から知らされた、グッドニュースとバッドニュース
「由紀さんとは?」
「ファンドマネジャー時代に、彼女の勤める投資銀行をアドバイザーで使って、何度か一緒に仕事をした」
「でも、なんで彼女は浜松へ?」
「M&Aの専門家がほしくて、おれが頼み込んだ。たまたま東京のある大使館のパーティーで彼女を見つけて誘ったら、幸いにもきてくれた。どうやら、勤めていたアメリカの投資銀行のチームが丸ごとリストラされて、日本に帰ってきていたらしい」
「彼女って、もともと女優かモデルですか?」
「そのあたりの話は本人に聞けよ」
波多野は、そう言って会話を打ち切った。ちょうど列車が静岡駅に到着するタイミングだった。
本瓦斯の静岡本部ビルに入って、波多野と一緒に取締役静岡本部長以下、主だったメンバーに挨拶した。当たり前だが、涼太は、まったく相手にされなかった。
そこへ、浜松にいる天野警部から電話が入った。グッドニュースとバッドニュース、両方の連絡だった。
グッドニュースは、本瓦斯病院を受け入れてもよいという医療法人が見つかったとのこと。しかも、本瓦斯病院とは一キロと離れていない至近距離の大規模な総合病院を運営している。
バッドニュースは、本瓦斯病院の七十半ばの院長が
「おれの目の黒いうちは、絶対にこの病院を手放すようなことはさせない」
と病院売却の打診に行った人事部長にきつく言い放ったということである。
これは、想定内ではあったが、重いボディブローだった。
美奈子社長が秘書室の笹原と一緒に静岡本部に着いたのを出迎えて、波多野は早速作戦を練った。
「申し訳ありませんが、院長の件は、社長か会長にお出ましいただくしかありません」
波多野が言うと、社長も頷いて言った。
「私が言っても話を聞くかどうか・・・。父に説得を頼んでみます。院長は、確か父と高校の同級生だったと思います」
波多野は、やや表情を明るくして言った。
「先日の会議で、会長が少し時間をくれ、とおっしゃったのは、このことだったのですね。ま、これはある程度時間をかけるしかありません。ところで、これからお会いいただく、清水ガスの岩沼社長の件ですが・・・」
波多野が話し出したところで、彼のポケットの携帯電話が振動するのが聞こえた。
「失礼」
と言って、電話に答えた波多野の表情が見る見る曇った。電話を切ると、硬い表情のまま美奈子社長に低い声で伝えた。
「すみません。先ほど父が亡くなったと、大阪から病院に駆け付けた兄から電話がありました。私も至急、浜松に戻りたいのですが」
美奈子社長は驚いて言った。
「それは突然のことで、本当にご愁傷様です。どうぞ、すぐお帰り下さい」
「夜の宴席も失礼することになりますが、例の件、折を見て社長から切り出してみて下さい」
「わかりました。岩沼社長の様子を見て、話せるようなら話してみます」
その後、清水ガスの岩沼社長へ挨拶に行く美奈子社長の随行として、涼太は、波多野の代わりに、秘書の笹原と一緒に会社の車に乗り込んだ。
「やはり、電力の小売りには参入されますか?」
清水ガス本社の社長応接室。ビルの窓から夕焼けの空に大きく富士山が見える。
席に着いて間もなく、岩沼社長が一人で応接室に入ってきた。恰幅の良い老紳士だが、地方財界の有力者というオーラを感じる。本瓦斯側は、美奈子社長と涼太の二人で、笹原は応接フロアの控室で待機していた。
「やあ、お待たせしました。わざわざお越しいただいてすみません。唐沢さんの葬儀でお目にかかって以来ですな。何度かアポイントのお申込みをいただいていたのを秘書から聞いておりましたが、例の協会主催の海外視察の後、体調を崩して人と会うのを控えておりましてね。改めて、社長ご就任おめでとうございます」
岩沼社長が、立ち上がった美奈子社長に声をかけると、美奈子社長も丁寧に名刺を差し出して挨拶を返した。
「いえ、こちらこそ、きちんとご挨拶に参上するのが遅れて大変失礼しました。改めまして、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
席に座るよう勧められて、慌てて涼太も名刺を出した。
「経営企画室の佐々木と申します。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。岩沼です。よろしく」
岩沼社長も鷹揚に名刺を出してくれた。
「すみません。本来、経営企画室長の波多野をご紹介しようと思っておりましたところ、急に家族に不幸がありまして」
席に座ったところで、美奈子社長が詫びると、岩沼社長が大きく頷いた。
「ああ、そうそう。波多野さん、ファンド業界では著名な方らしいね。本瓦斯さんのところにいらっしゃると聞いて、一度お話を伺おうかと思っていました」
「それで、この後の宴席も、せっかくご招待いただいたのに、出席がかないません」
「あ、そうか。しかし、若い女性と二人きりで料亭で食事というのも、ちょっと気が引けるな。佐々木さんとおっしゃったかな。あなたも、よろしければどうぞ」
涼太は、突然の誘いに何と答えてよいかわからず一瞬とまどった。
「すみません。それでは、お言葉に甘えて二人でお伺いさせていただきます」
美奈子社長が答えて話がまとまった。その後は、ガス業界の経営課題に関する当たり障りのない意見交換が続いた。
「来年から、いよいよ電力の小売りが自由化※1されて、その後はガスの販売も自由化されます。電力・ガスの小売りが全面自由化されると、需要家は選択肢が増えていいのでしょうけれど、売る方は大変ですわ」
※1 エネルギーのシステム改革の一環として電気事業法の改正が行われ、二〇一六年より電力の小売りが自由化され、二〇一七年よりガスの小売りが自由化された。
美奈子社長が話題を振ると、岩沼社長も答えた。
「まあ、震災後、原発の再稼働が覚束ない中で、電力会社も、ずいぶん苦労していますがね。われわれと違って体力があるから、あっという間にエネルギー市場を席巻するだろうね」
「やはり、電力の小売りには参入されますか?」
「この前の株主総会で質問が出て、検討していると答えましたけどね。大規模な発電所を持っているわけでもないし、太陽光や風力といった再生可能エネルギー※2は当然やるとしても、どこまで展開できるかが問題だな」
※2 太陽光や水力、風力、バイオマス、地熱など一度利用しても比較的短期間に再生が可能で、資源が枯渇しないエネルギー。温室効果ガスを排出しないという特徴を持つ。
「そうですね。マーケティングも必要ですし、従業員の教育も重要です」
「確かに。人材も豊富な大手三社はともかく、われわれのクラスだと、めりはりをつけないと厳しいね。逆に、もっと小さければ地域密着で特色を出して生き残るしかないと腹をくくれるのだが・・・」
話がいったん途切れたところで、場所を変えて、清水から静岡に少し戻ったところにある老舗の料亭で会食となった。