「先日、こちらに参ったときに出たお話の続きですが」
九月の下旬に入って、美奈子社長と波多野と涼太は再び清水に行った。今度は、こちらから岩沼社長をイタリアンレストランの昼食に招待した。
「こちらが経営企画室長の波多野です」
美奈子社長が紹介すると、波多野がおもむろに名刺を出して挨拶をした。
「先日は、せっかくのお誘いを急にお断りして大変失礼しました」
「いや、その節は、お父上を亡くされたそうで、ご愁傷様でした。ぜひ一度、アメリカのファンドビジネスの状況をお伺いしたいと思いましてね」
岩沼社長も愛想よく応じた。
「リーマンショックの後に仕入れた投資案件が五年ほど経ちまして、それぞれ順調に企業価値を高めて、いま刈り入れの時期を迎えています。米国の経済環境もよく、M&A市場は活況を呈して、どのファンドも着実に稼いでいます」
「ほう、シェールガスはどうですか? そちらには投資していましたか?」
「ご案内の通り、原油価格が大きく下がって厳しい状態が続きましたが、少しずつ市況も回復し、これからは期待が持てそうです。投資回収のめども立ちつつあります」
「なるほど。パナマ運河も広がりますし、なかなか楽しみが増えますな」
岩沼社長は上機嫌でワイングラスを傾けた。美奈子社長が、少し態度を改めて話題を変えた。
「先日、こちらに参ったときに出たお話の続きですが、よろしければ具体的なオファーを当方から出させていただき、初期的な契約手続きなども見据えて進めさせていただければと思いますが」
岩沼社長は、ナプキンで口元をゆっくりと拭うと、慎重に言葉を選んで言った。
「まあ、あまり急ぐのもどうかと。私のところはさておき、本瓦斯さんは、まだ美奈子社長に代替わりして間もないわけで、急いては事を仕損じるといいます。お互いのベストのタイミングを計るということでよろしいのではないですかな」
岩沼社長は、そう言うと、デザートのティラミスにスプーンを入れた。この健啖家ぶりを見ると体調も完全に回復したようだった。
ガス火力発電所運営会社への資本参加の提案
十月になった。秋風が心地よく感じられる頃、介護ビジネスの子会社が売れた。売り先は、東京に本社がある大手の設備工事会社で、五一億円の値がついた。二次入札の前後は、由紀は不眠不休で契約条件をまとめ、社内の取締役会を通し、売却先とのクロージング※1の最終調整を行った。
※1 M&Aの最終契約締結後、株式や事業資産の引き渡しを受ける代わりに、対価を入金するという決済取引を行う。これを称してクロージングといい、この手続きによりM&Aは終結する。
そのような忙しさの中でも、きちんと身だしなみを整えて颯爽と立ち居ふるまう由紀に対し、涼太は尊敬の思いを強くしたが、親しく会話をする機会はまったくなかった。
プロジェクト・ロッキーは、岩沼社長との会食の後、一時中断となった。病院案件も院長の粘りでストップしており、清水ガスが動かない中で、伊豆ガスまで手を伸ばせるはずもなかった。
波多野は、頻繁に東京に出張し、またアメリカのファンドとの連絡を密にし始めていた。ときどき、中日本ガスという言葉を口にしていたが、その意味は、スタッフには明らかにされなかった。
そこに、突然、由紀の知り合いのフィリピンのM&Aアドバイザリーファームから買収案件の紹介があった。マニラ郊外にあるガス火力発電所の運営会社に資本参加しないかという誘いだった。
「運営会社は現在、フィリピンの電力会社と長期の売電契約を結んでおり、順調に稼働しています。今の株主は、スペインの電力会社とシンガポールの銀行とフィリピンの投資家です。筆頭株主のスペインの電力会社が本社の投資方針の変更により持ち株すべてをビッド(入札方式)で売却する予定です」
由紀が、アドバイザリーファームから送られてきたパワーポイントの資料を使って、要領よく対象案件を紹介する。
「持ち株全部というと、何パーセントなの?」
波多野が聞いた。
「三五パーセントです」
「するとマジョリティ(支配株主権※2)は持っていないわけだ。売却後の発電所のオペレーションは大丈夫なの?」
※2 過半数の株式を保有することにより、会社経営における支配権を有することをいう。
「出資契約とは別に、株主であるスペインの電力会社が発電所の運営会社と運営サポート契約を結んでおり、これは維持されます」
「で、いくらくらいになりそうなの?」
「三〇億円プラスアルファと、現地のアドバイザリーファームは試算しています」
「ふうううむ」
波多野は考え込んだ。ここで三〇億円以上使うと介護サービス子会社の売却で得た資金のかなりの部分を吐き出してしまう。次にくる清水ガスの買収資金がその分減る。しかし、このフィリピンの発電案件は、サイズも契約条件も悪くない。今ならチームも動かせる。しかも、入札となると今、動かないと、ほかの競争相手に取られて、この案件は消滅する。
「美奈子社長に相談するかな」
波多野は呟くと、すぐ秘書室に電話をかけた。
三十分後、波多野は社長室から帰ってきた。
「美奈子社長からゴーサインをもらった。当社が来年、電力事業に参入するのに、この機会に発電のノウハウを蓄えたい。さらに海外展開の足掛かりをつくりたい、とのことだ。しかも、フィリピンは近い。お金の算段は別途考えましょう、とも言っていた」
涼太は新しい仕事が入って、ちょっと嬉しくなった。七月にケーキ室に配属になって以来、九月の半ばまで怒涛の忙しさだった。多忙な中で、新たに習得したことも多く、毎日が発見の連続で楽しかった。それが、この二週間ほど、少し手持ち無沙汰になっていた。実際に、実家の両親からケーキ室にきてからため息が減ったと喜ばれていたが、そのため息を復活させないためにも、何か新しいことにチャレンジしたかった。
「それじゃ、チーム編成して、マニラに行ってアドバイザーとミーティング、ついでに現地視察もして来てもらおうか。由紀をヘッドに、涼太と村瀬、それにフィリピン帰りのマリアと四人だ」
おお、憧れの由紀さんと出張だ。しかも四人で未踏の地マニラに行く。涼太はスキップしたくなった。
「あの、マニラって、かなり治安が悪いイメージがあるのですけど」
村瀬が突然、手を挙げて質問した。
「村瀬さんなら大丈夫よ。街で声をかけてくるお兄さんについていかなければ」
現地事情に詳しいマリアがいきなり釘を刺した。久しぶりにノリのよいマリアを見た。
マニラ空港からホテルのリムジンに乗って市内中心部に向かった。雑踏の中をカラフルなジプニーと呼ばれる乗合バスがたくさん走っている。外はかなり暑そうだ。やがて高層ビルが見えるマカティというビジネス街に入っていく。ホテルは、そのマカティの金融ビル群の一角にあった。
大理石のロビーの天井が高い。シャンデリアの向こうに人工の滝が流れている。かなり高級なホテルである。
四人は揃ってチェックインした。涼太は村瀬とツインの相部屋。由紀はマリアと相部屋だが、由紀がカンパして同じ階の角の二部屋続きのコネクティングルームをとった。いわゆるセミスイートである。
「マリアって、どのあたりに住んでいたの?」
「もうちょっと郊外。車で三十分ぐらい行ったところ」
マリアもセンチメンタルジャーニーを少し味わっているようだ。
夕方からホテルに隣接するビルの中ほどにあるオフィスを訪ねた。今回の案件を紹介してくれたM&Aアドバイザリーファームである。
「やあ、由紀。久しぶり」
デイビッドと名乗った彫りの深い端正な顔立ちの五十前後と見える男が握手を求めた。このブティック・タイプといわれる小規模な投資銀行のCEOである。さらに、レイという男性に続いて、マリッサ、レオノラ、クリスティナと若い女性スタッフの紹介が続き、彼らが今回の案件に対し、かなり大きな期待を抱いているのがわかった。
涼太は、マニラに来るのも初めてなら、海外の投資銀行のスタッフと会うのも初めてである。九月に受けた二度目のTOEICの試験結果が、出発の前日に届いていて六〇〇点だった。短期間でまずまずの上達ぶりだが、インベストメントバンカーとビジネスでディスカッションするには、まったく頼りない語学力である。
結局、ミーティングでは、主に由紀が話し、マリアがメモ取りをして、ときどき今こんな話をしているのとマリアが解説してくれるのを、男二人は懸命に聞き取るという展開になった。由紀が話す英語は、驚いたことにまったくネイティブで、デイビッドと丁々発止(ちょうちょうはっし)とやりあう会話を涼太と村瀬は、ほとんど聞き取ることはできなかった。つまり男二人は単なる傍観者と化したわけである。
ミーティングの最後に、明日の現地視察の予定を確認して、ビルの最上階にあるフィリピン料理のレストランに行った。夜景が綺麗なことに加え、予想外に海産物が豊富で美味しく、涼太が魚の骨を上手に除いてみんなに取り分けると、デイビッドが大げさに称賛した。
デイビッドたちにホテルのロビーまで送られて、明日の朝七時にここに集合と告げられ、その日は解散となった。
村瀬は、せっかくなのでちょっと出かけてくると言って、ホテルのコンシェルジュをつかまえて、地図片手にいそいそとタクシー乗り場に向かった。マリアは、メモ取りで疲れたのか、早めに休むと言って部屋に戻って行った。涼太は、この瞬間を逃したら二度と由紀と話す機会は巡ってこないかもしれないと、慌てて由紀に声をかけた。
「由紀さん、よかったら、ホテルのバーで少し飲んでいきませんか?」
涼太が誘うと、由紀も
「そうね。いいわよ」
と応じてくれた。涼太と由紀は、ホテルの最上階にあるカクテルバーに向かった。
※この小説の続きは、書籍『M&A神アドバイザーズ』(エネルギーフォーラム)でお楽しみください。