父親の葬儀を終えた波多野が復帰し、全力疾走を再開した経営企画のスタッフたち。そんななか、「警部」は波多野へ清水ガスのM&Aをつぶそうとする本州瓦斯内部の動きを伝え…。※複雑で難しいM&Aや事業再生の基礎知識が、ライトノベルで学べる! 総合エネルギー出版社のエネルギーフォーラムから登場した新しいノベルズのジャンル、〈ビジネス・ライト・ノベル〉。作家の江上剛氏、鈴木光司氏、高嶋哲夫氏が選考委員を務めるエネルギーフォーラム小説賞第5回受賞作、『M&A神アドバイザーズ』(山本貴之著)を、連載形式で一部紹介。

 

 (物語の主な登場人物は、ここをクリック) 

 

「じゃあ、次にプロジェクト・ロッキーいきますか」

葬儀の翌々日から波多野が出てきて、ケーキ室は再び全力疾走の状態に戻った。

 

「由紀、ヘルスケアの売却の件、どこまで進んだ?」

 

「これはと思うM&Aアドバイザリーファーム※1五社ほどに声をかけて、ビューティーコンテスト※2をやって各社の提案内容を横並びで比較検討しました。その結果、ファイナンシャルアドバイザーを一社選定しました」

 

※1 M&Aに関するアドバイザリー(助言)を専業とする投資銀行。比較的小規模なもの(ブティックという)をいうことが多い。

 

※2 事業者がM&Aを助言するファイナンシャルアドバイザーを選任する際に、複数の投資銀行から提案を出させて、その中から対象事業に関する知見やサービス内容、フィー(料金)の額などを勘案して選定する手続きをいう。

 

「買収希望者のリストアップとIM(インフォメーション・メモランダム※3)の作成は?」

 

※3 売却対象会社の具体的内容を記した資料で、買収希望者に配付するもの。入札形式で多数の希望者に情報提供する際に用いられることが多い。

 

「買収希望者は二十社ほど候補先をリストアップして、すでに電話でのアポ入れを始めています。IMも完成し、希望者に配付できる状態にあります」

 

「いいね。どれぐらいで売れるかな」

 

「手元の計算では、企業価値三〇億円ほどですが、できれば四〇億から五〇億円では売りたいと思います」

 

波多野は頷くと、天野警部の方を見た。

 

「この前、本瓦斯病院の買収に興味を示した医療法人の浜松厚生会、その後コンタクトとってる?」

 

「ええ、先方の理事長にも会いました。はっきりと関心があるとおっしゃってまして、事務長に具体的に話を進めるように指示を出していました」

 

「あちらの病院の評判は、どうですか?」

 

「いいですね。厚生会の病院は、駅に一番近い総合病院ですが、救急車の受け入れにも積極的ですし、スタッフのモチベーションも高く、患者の評判も上々です」

 

「病院の買収となると市の認可もいるけど、こちらの見込みは?」

 

「やってみなければわかりませんが、過去の実績を見ると、今回のケースは何とかいけると思います」

 

「よし。じゃあ、次にプロジェクト・ロッキーいきますか。由紀と涼太とひとみは別室へ。後は、村瀬は東南アジアの電力事情を調べて、投資できそうなプロジェクトを探す。マリアは、アメリカのシェールガス、特にテキサス州の開発状況を探ってくれ。二人とも由紀に教えてもらって、どんどん作業を進めてくれ」

 

波多野が急にコードネーム※4を使った。しかし、涼太にはピンときた。清水ガスの社長の名前は岩沼。英語で言うとロック・ポンド。頭をとってロッキーだ。

 

※4 M&Aは、企業活動に与える影響が大きいため、その情報は厳重に管理する必要がある。したがって、同じチーム内でも案件に携わるメンバー以外に企業名が漏れることを防ぐため、「プロジェクト**」といった暗号名(コードネーム)を用いることが一般的である。

 

ケーキ室には、室内に別室と呼ばれるガラス張りの会議室が一つある。外から中の人の姿を見ることはできるが、声は聞こえないし、ホワイトボードの文字も読めない。波多野が特に用意させたもので、チーム内でも情報管理に気をつける案件は、この部屋を使うことにしていた。

 

「プロジェクト・ロッキーだが、徐々に動き出してきたので、本格的にフォローしていきたいと思う。両社の経営を統合する計画をつくっていく仕事は、私が美奈子社長と相談しながら、社内に専門のチームを立ち上げて進める。涼太とひとみは、由紀に指導してもらって、清水ガスの企業価値を評価してほしい。本来、アドバイザーに依頼する仕事だが、まず手元に数字を持っておきたい」

 

波多野の指示にひとみと涼太が大きく頷くのを見ると、さらに波多野はひとこと付け加えた。

 

「本件は、情報管理に十分気をつけてほしい。先方にとっては事業承継の非常に気を使う案件だが、当社にとっても、とりわけ慎重に扱うべき案件だ」

 

その言葉を聞いて、涼太は、先日の居酒屋での村瀬との会話を思い出して、だんだんと心配になった。

 

美奈子社長と岩沼社長との静岡の料亭での会話は、当事者を除けば、涼太だけが知っている話である。美奈子社長の指示で波多野にだけ報告したが、生々しいやり取りは、本瓦斯社内でもごく限られた人間しか知らないはずだった。

「例の清水ガスですが、どうもきな臭い感じですよ」

九月に入ると夏の暑さもようやく和らいできた。

 

介護ビジネスの売却手続きは、順調に進み、一次入札を終えて、大手のハウスメーカー、設備工事会社、警備会社、損害保険会社の四社が残っている。それぞれデューディリジェンス(資産査定※5)を終えて、今月末の二次入札に向けて最終の提示金額の詰めをしていた。

 

※5 M&Aを行う際、法務や会計・税務の専門家を交えて、対象会社の資産を詳細に調査し、想定されたビジネス上の価値があるかどうか検証する作業。

 

由紀は、この仕事をメインでこなしながら、涼太やひとみと清水ガスの価値評価※6を進めている。

 

※6 M&Aを行う際、買収対象企業の価値を算定評価する。通常は、ファイナンシャルアドバイザーが依頼を受けていくつかの算定方法を用い客観的に評価する。

 

「ロッキーの株式評価額は、およそ三〇〇億円。現社長から過半数の株を譲り受けるとして約半分の一五〇億円の買い物になります。また、負債が五〇億円ほど残っていますので、これの保証債務も引き受ける必要があります」

 

ひとみの説明に波多野は頷いて言った。

 

「介護ビジネスの売却で得る資金を含めて、手元に余裕資金が一〇〇億円はあるから、後は銀行借り入れだな。まあ、なんとかなるだろう」

 

そこに、秘書室から電話が入ってきた。波多野の表情が少し曇って見える。電話を切った後、天野警部と涼太を別室に呼んだ。

 

「今、徳太郎会長から電話があった。本瓦斯病院の院長に会って勇退を促したそうだが、逆に『あと五年猶予をくれ。八十になるまでには、後任を見つけて、病院経営も軌道に乗せる』と泣きつかれたそうだ」

 

波多野の話に、涼太はびっくりした。しかし、警部は平然としていた。

 

「まあ、この手の話に時間がかかるのはつきものですよ。少し様子を見ましょうかね」

 

波多野も、表情を曇らせたのは一瞬で、いつものポーカーフェースに戻っていた。

 

「何か手を打とうかとも思ったが、警部がそう言うなら、柿が熟して落ちるのを待つとしようか」

 

そう言って、デスクに戻ろうとすると、逆に、警部に引き止められた。

 

「例の清水ガスですが、どうもきな臭い感じですよ」

 

「ほう、それは?」

 

「うちの会社の静岡組の連中が、先方の役員に働きかけて、この話を潰そうとしている節が見られます」

 

「ふうん、なぜかな? この資本参加は、わが社の企業価値を増すはずだし、静岡組にとっては、静岡の東側にグループの供給エリアが広がるわけだから、自分たちの得意な領域を伸ばす点でも悪い話とは思えないがね」

 

「常識的に考えれば、そうでしょうね。しかし、そもそも静岡組にしてみれば、世が世なら唐沢社長の下でわが世の春を謳歌していた時代なのに、という僻み根性があります。そこに、美奈子社長が波多野さんや私を外から連れてきて、いきなり経営改革を始めた。その最初の手柄が長年の懸案事項だった清水ガスの吸収となると、やはり面白くない。それに、浜松出身の私たちにはわかりませんが、当社の静岡組と先方の静岡・清水出身者との間の確執もあるみたいです」

 

波多野は首をひねったが、かつてのアメリカの乗員組合での身内同士の陰湿ないざこざを思い出して、なんとなく納得した様子だった。

 

「それで、当社の静岡組が先方の部長、課長あたりに、うちの傘下に入ったら清水ガスのブランドは消えて、お前たちも一生冷や飯食いか、さもなければリストラだ、と怪情報を流しているようです。それに影響されて、向こうの経営陣も、だんだん浮足立ってきていると聞きました」

 

警部は、一体どうやってこのような情報を仕入れてくるのだろうかと涼太は思った。

 

その瞬間、涼太は、もう一つ気づいたことがあった。最近盛んに村瀬がプロジェクト・ロッキーの進捗状況を聞いてくる。さては、ヤツはそれを横流ししているに違いない。すると、自分もその情報源に一役買っているということか。

 

「少しペースを速めよう。介護と病院を片づけてからと思ったが、美奈子社長に清水に行ってもらって、基本合意※7の取り付けを急ぐとしよう」

 

※7 M&Aを進める際、比較的早い段階において相手方と、買収対象の範囲や買収スキーム、出資比率、株式評価額と投資額、経営体制や従業員の雇用条件、契約締結までのスケジュールなど買収取引の大枠について合意すること。一般的に法的拘束力はない。

 

M&A神アドバイザーズ

M&A神アドバイザーズ

山本 貴之

エネルギーフォーラム

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