「本瓦斯さんに私の持っている清水ガスの株を…」
少しお酒が入って、美奈子社長の目元がほんのりと色づいた。岩沼社長もやや饒舌になったが、病み上がりということでアルコールをセーブしている様子だった。涼太は、最初だけビールをついで、後は聞き役に回った。
「しかし、唐沢さんが倒れられたときはびっくりしたが、美奈子さんが立派に社長を引き継がれて、徳太郎会長もほっとされただろうね」
「いえ、父からも岩沼社長には大変お世話になったし、これからもぜひよろしくとお伝えするように言われて参りました」
「ふむ。それにひきかえ、うちの一人娘は、清水には盆暮れしか顔を出さないからな」
「あら、峰子さんは、医療の分野では大層なご活躍ぶりと知り合いのドクターが噂しているのをよく聞きますわ。若くして難しい移植手術を成功されて、その後も女性外科医として最先端の医療現場でご活躍とか。それにご主人も先日iPS細胞(人工多能性幹細胞)を使った手術に関するインタビューを受けていらっしゃるのをテレビで拝見しました」
美奈子社長が言うと、岩沼社長がふうっとため息をついた。
「今日お見えになったのは、その話をするためなのかな?」
「その話というわけではありませんが、せっかくの機会ですので、今後の両社の協力関係に関してお話をお伺いしたいと思いまして」
「うちのLNG基地から貴社にガスを供給するパイプラインは、予定通り完成してうまく稼働しているようだね。それに人材交流も進んでいる」
「ええ、大変感謝しておりますわ」
美奈子社長がお礼を言うと、場はいったん静まり、箸で料理をつまむ音がしばらく続いた。
「ご存知の通り、うちは、石油ガスから天然ガスへ熱量変更※を進めているたまたまその時期に、田子(たご)の浦で事故を起こしましてね。その復旧と熱量変更の工事が重なって、非常に厳しい時期が長く続きました」
※ 石油系ガスから天然ガスなどの高カロリーのガスに切り替えること。多くのガス会社が一九八〇年代から二〇〇〇年代にかけて実施した。各家庭のガス機器を高カロリー化に適合するよう調整する作業が必要となり、ガス会社に多額のコスト負担が発生した。
岩沼社長が、おもむろに話し出した。
「幸いお客さんに助けられ、従業員も頑張って、なんとかコンビナートも元通りに直し、熱変も無事終えたが、だいぶ債務が残った。それで、銀行取引も、本瓦斯さんとは違って今でも私の個人保証ですよ」
美奈子社長は頷いて耳を傾けていた。
「私も最近、体調もいま一つなので、本瓦斯さんが代替わりしたのを見て、いろいろ考えましてね。さっきお話ししたように娘の峰子は医療の世界に入ってしまったし、孫はまだ小さい。甥っ子が清水で港湾関係の仕事をしているのですが、個人保証のことを話したら及び腰でね。後は、今の経営陣に株を譲るか、ということだが、彼らにそれだけの資金を用意しろ、というのもちょっと酷だと・・・」
「ええ、わかります」
美奈子社長は静かに頷いた。
「お父上の徳太郎会長には、何かあったときは助け合いましょう、と若い頃からお互いに声を掛け合ってきたものでね。だから、もしその気があるのなら、本瓦斯さんに私の持っている清水ガスの株を譲ってもいいと思っている」
美奈子社長も、涼太も黙って聞いている。
「ただし、清水ガスの名前を消すわけにはいかない。清水財界の手前もあるし、従業員のモチベーションにも関わる。だから、少なくとも五年、いや十年はブランドを残すこと。それに今の顧客との取引と従業員の雇用は、きっちりと維持してもらわなければ困る。こんなところで、どうかな?」
岩沼社長の言葉に、美奈子社長は深く頭を垂れた。
「ありがとうございます。いただいたお言葉を胸に、早急に社内をまとめて参りたいと思います」
「そう、じゃよろしく。またお父上ともゆっくりお会いしたいね」
岩沼社長は、そう締めくくると、車を玄関に回すように、店の女将に告げた。
「この前、清水ガスの岩沼社長に会いに行っただろ」
波多野キャプテンの父の葬儀は、近親者だけで済ませると当初は言っていたが、結局、徳太郎会長をはじめ本瓦斯の関係者も多く出席する立派なものとなった。天野警部などケーキ室のメンバーも揃って焼香を済ませたが、その後、警部と由紀ら急ぎの仕事を抱えているスタッフはオフィスに戻り、涼太は、村瀬とマリアと葬儀場の近くの喫茶店に入った。
「涼太先輩と話すのって、初めてかもしれない」
マリアが先輩と呼ぶのを誰のことかと一瞬見まわした涼太は、小麦色のいかにも健康的な顔立ちをしたマリアの澄んだ眼差しが自分を直視しているのを見て、少し慌てた。
「先輩って、高校の?」
「高校も、大学も、です」
マリアが答えると、横から村瀬が割り込んだ。
「涼太、知らなかったの。マリアって、お前の大学の去年の準ミスだぜ」
相変わらず、情報量で村瀬に負けている、と涼太は少し焦って言った。
「え、学部は?」
「法学部。先輩は経済学部でしょ」
「よく知っているね。でも、マリアって、いい名前だね」
自分でもまずい話題の展開だと思いながら、涼太は会話をつなげた。
「よく言われるけど。両親がカトリックの信者さんだし、ブラジルで生まれたから・・・」
「え、もしかしてハーフ?」
「それもよく聞かれるけど。残念でした、純国産!」
この子のノリ、面白いかもしれない。
「ふーん、いつまでブラジルにいたの?」
「幼稚園までサンパウロにいて、それから日本に帰って浜松の小学校に入って、中学はフィリピンのマニラで過ごして、高校でまた浜松。ほら、親が車やオートバイの会社とかに勤めていると結構、海外赴任とか多いのよ。友達とかも、アメリカはもちろんだけど、インドやインドネシアに住んでたっていう子もいっぱいいるし」
なるほどね。浜松は、市の人口に占めるブラジル人の比率も高いが、帰国子女の割合もかなり高いかもしれない。それに引き換え、自分は大学四年生の卒業旅行で、初めて飛行機のシートベルトを締めたドメスティック(国内)派だ。
「涼太先輩って、由紀さんのこと、気にかかって仕方がないみたい」
やはり、女の勘は鋭い。
「まあね」
と言葉を濁すと、また村瀬が割り込んだ。
「あの人すごいよな。廊下で彼女を見かけた人、みんな振り返る超美人だもんな。仕事の集中力もすごい。ヘルスケア会社の売却の件、ほとんど一人で取り仕切ってる」
「引っ切りなしにかかってくる日米両方の電話の応対をヘッドフォンでこなしながら、すごい勢いでパソコン打って、しかも疲れた顔一つ見せず、ファッションセンスも抜群」
マリアも同調して付け加えた。
「今度、お盆休みを一日もらって、由紀さんとひとみさんと三人で浜名湖の北にある舘山寺(かんざんじ)温泉に一泊して女子会やるんだ」
ふーん。すごく合流したいが、女子会じゃ諦めるしかないか。涼太が思っていることを村瀬も思ったらしい。ふうっとため息をついている。
「じゃあねっ」
友達との約束があるというマリアと別れると、今度は村瀬に飲みに誘われた。あまり一緒にいたくない相手だが、同じセクションの同期だし、ここで断ると角が立つ。
「ひとみって、入社年でうちらの一つ後輩だぜ。磐田(いわた)出身で浜松にある国立大学の工学部を出て、財務分析が得意といってるけど、本来はITシステムとかプログラミングの専門家」
あ、そうなんだ。たいした情報通だな。
「由紀さんて、うちのオフィスの上層階にある高級ホテルに住んでいるらしい。お嬢様なのかも。お父さんが外交官で、どこかの大使という噂もある」
え、知らなかった。なんだ、こいつ、おれより詳しい。
「と、そこまで教えてやったんだから、おれにも一つ教えてくれよ」
村瀬が、ビールジョッキを脇において、顔を近づけてきた。
「この前、美奈子社長と一緒に、清水ガスの岩沼社長に会いに行っただろ。どんな話だったか教えてくれよ」
酒臭い村瀬の息に顔をそむけながら、そういうネタをほしがっていたんだ、と納得した。
「いや、社長就任の挨拶に行っただけだよ。よろしくって言っていた」
「でも、宴席も用意されていたんだろ。少しは踏み込んだ話もあったんじゃないのか?」
「確かに今後の協力関係の話は出ていたな」
「ははあ、うちの社長、株買いますってオファーしたのか?」
「いや、そこまでは・・・」
「・・・やっぱり、したんだな。それで向こうの反応は?」
「いや、だから・・・」
酔っ払った村瀬は、どんよりした眼で涼太を睨みながら、何度も首を縦に動かした。
「はっきり否定しないところをみると、一〇〇パーセント拒絶というわけでもなかったってことか。なるほどね」
青白く光る村瀬の顔を見て、涼太は急に疲れを感じた。
「じゃあ、また明日」
まだ飲み足りない様子の村瀬を尻目に、涼太は居酒屋の会計ボタンを親指で勢いよく押した。