「近くまで来たから」連絡なしで現れた85歳母
日曜日の午前10時過ぎ、インターホンが鳴りました。
「宅配便かな」
そう言いながら玄関へ向かおうとした直樹さん(仮名・65歳)でしたが、その前に鍵の開く音がしました。玄関に立っていたのは、85歳の母・芳江さん(仮名)でした。
「母さん? どうしたの」
「近くまで来たから寄ったのよ」
芳江さんは悪びれる様子もなく靴を脱ぎ、そのまま家へ上がりました。
直樹さんは妻の恵理子さん(仮名)との二人暮らし。前年に会社を退職し、現在は再雇用で週3日働いています。夫婦の年金は合わせて月約22万円ですが、直樹さんは給与収入も得ています。
芳江さんは夫を亡くしてから一人暮らしを続けており、直樹さん宅までは電車と徒歩で40分ほどです。足腰はしっかりしていて、買い物や通院も一人でこなしていました。
母に合鍵を渡したのは、5年ほど前のことでした。
当時、直樹さん夫婦は共働き。芳江さんが自宅を訪ねてきても留守にしていることがあり、「何かあったときのためにも」と鍵を一本渡しました。
それまで芳江さんが勝手に鍵を使うことはありませんでした。ところが直樹さんが退職してから、状況が変わります。
「今日、そっちに行ってもいい?」
最初は電話がありました。しかし次第に「今から行くね」という連絡になり、その日、とうとう何の連絡もなく玄関を開けたのです。
恵理子さんは笑顔でお茶を出しましたが、芳江さんが帰った後、夫に言いました。
「せめて来る前に連絡してほしいな」
「母さんも一人だから、話し相手がほしいんじゃないか」
直樹さんはそう答えました。その言葉に、恵理子さんはそれ以上何も言いませんでした。
それからも芳江さんは週に1回ほど訪ねてきました。電話がある日もあれば、突然やって来る日もあります。昼前に来れば「何か食べるものある?」と言い、夕方まで過ごすこともありました。
直樹さんは、母が来ること自体に大きな抵抗はありませんでした。ただ、恵理子さんが友人との外出を早めに切り上げたり、自宅でゆっくり過ごすつもりだった日に予定を変えたりしていることには、深く注意を払っていませんでした。
厚生労働省『2024(令和6)年 国民生活基礎調査』によると、65歳以上の人がいる世帯のうち「単独世帯」は32.7%、「夫婦のみの世帯」は31.8%です。高齢期には、親世代と子世代がそれぞれ別の世帯で生活する形も珍しくありません。
そんなある日、恵理子さんがとうとう夫に言いました。
「私、家にいても落ち着かなくなってきた」
