2週間で見えてきた母の喪失感
雅也さんは節子さんをリビングへ通し、ゆっくり話を聞きました。節子さんが感じていたのは、設備や職員への不満ではありませんでした。
朝起きても、長年使っていた台所がない。庭に出ても、毎年花を咲かせていた植木がない。近所の人と玄関先で立ち話をすることもありません。
「何時に起きてもいいし、何をしてもいいの。でも、することがないのよ」
自宅にいたころは、洗濯物を干し、庭を掃き、近所のスーパーへ歩いていました。家族から見れば負担に思えた家事も、節子さんにとっては一日のリズムを作る大切な役割だったのです。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』では、高齢者が安心して暮らせる住環境の整備や、高齢者に適した住宅への住み替えを支援する施策が示されています。一方、住み替えでは住宅の設備だけでなく、地域とのつながりや本人の生活の継続性も無視できません。
「家に戻れば、また転ぶかもしれないだろ」
雅也さんがそう言うと、節子さんは少し黙ってから答えました。
「わかってる。でも、あの家で暮らしていた私は、まだちゃんと生活してたの。今はただ、ご飯が出てくるのを待ってるだけみたい」
雅也さんは返答できませんでした。結局、その日に自宅へ戻すことはしませんでした。
家族はサ高住の職員にも相談し、節子さん自身を交えて今後について話し合いました。まずは週に一度、雅也さんと一緒に元の自宅へ行き、庭の手入れや荷物の整理をすることにしました。
サ高住でも食事を毎回頼むのではなく、節子さんが簡単な朝食を自室で準備する日を設けました。住宅内の催しにも無理に参加させず、以前の知人と会う予定を優先することにしました。
「入れば安心だと思って、そこで話が終わっていたんです。母がそこでどうやって一日を過ごすのかまでは、考えていませんでした」
入居から数ヵ月。節子さんは今もサ高住で暮らしています。「帰りたい」と口にすることはありますが、以前の自宅へ完全に戻ることだけが答えだとは考えなくなったといいます。
高齢期の住み替えでは、安全性や介護への備えは重要です。しかし、本人が失うものにも目を向ける必要があります。
住み慣れた家から離れるとき、手放すのは建物だけではありません。毎日の習慣、人との付き合い、自分でできていた家事――そうしたものを新しい暮らしのなかでどう残していくのかまで考えることが、住み替え後の生活を支える一歩になるのでしょう。
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