「家族のために働いた」が、家族には届いていなかった
その夜、隆志さんは恵子さんに電話をかけました。
「明日は帰ってくるのか」
少し沈黙したあと、恵子さんは答えました。
「もう少し娘のところにいるつもり」
「俺も定年したんだ。これからは家にいる」
「だからって、すぐに仲良く暮らせるとは思えないの」
隆志さんは言葉を失いました。
恵子さんは、夫の定年を何年も前から不安に感じていたといいます。仕事の話しかせず、家事も地域のことも任せきりだった夫が、一日中家にいる生活を想像できなかったのです。
「あなたは会社では部下に頼られていたのかもしれない。でも家では、私が何を考えているか聞こうともしなかったでしょう」
隆志さんは、「家族のために働いてきた」と反論しかけました。しかし、定年を祝う食事を家族とする予定すら立てていなかったことに気づき、口を閉ざしました。
翌週、隆志さんは恵子さんと話し合いました。すぐに自宅へ戻ってほしいと迫るのではなく、これまで家庭を顧みなかったことを謝りました。
恵子さんは、すぐには同居を再開しないと伝えました。ただし週末に二人で食事をし、今後について少しずつ話すことには応じました。
隆志さんは地域の料理教室に申し込みました。これまで妻に任せていた食事を、自分で用意できるようになるためです。
初めて作った野菜炒めは水っぽく、とても人に出せる出来ではありませんでした。それでも、コンビニ弁当を無言で見つめていた夜とは違い、自分で生活を立て直している感覚がありました。
会社に尽くしてきた年月が無意味だったわけではありません。しかし、仕事で得た肩書や評価は、退職とともに離れていきます。その後の暮らしを支えるのは、家庭や地域で築いてきた関係と、自分自身で生活を営む力です。
定年後の準備に必要なのは、貯蓄や年金額の確認だけではありません。会社を離れたあと、誰とどのように過ごしたいのか。その答えを現役のうちから考えておくことも、老後設計の一部なのかもしれません。
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