退職翌日、起きる理由が見つからなかった朝
隆志さん(仮名・60歳)は、食品メーカーに38年間勤め、営業部の管理職として定年を迎えました。最終出勤日には部下から花束と記念品を渡され、送別会も開かれました。
「これからは、ゆっくりしてください」
部下にそう言われた隆志さんは、笑顔でうなずきました。しかし、帰宅後に花束を置いた食卓には、誰もいませんでした。
妻の恵子さん(仮名・58歳)は、数ヵ月前から近隣に住む長女の家で暮らしていました。長女が出産したため手伝いに行っているというのが表向きの理由でしたが、夫婦関係が冷え込んでいたことも事実です。
定年翌日、隆志さんは午前6時に目を覚ましました。長年の習慣でスーツに手を伸ばしかけ、今日から会社へ行く必要がないことに気づきます。
テレビをつけても、内容は頭に入りません。朝食を作る習慣もなかったため、冷蔵庫に残っていた缶コーヒーだけで済ませました。
昼前になると、会社から電話がかかってくるのではないかとスマートフォンを何度も確認しました。引き継ぎについて尋ねられるかもしれない。部下が判断に迷い、相談してくるかもしれない。そんなことはないと頭では分かっていても、どこかで期待してしまう自分がいました。しかし、着信はありませんでした。
午後、隆志さんは近所のコンビニへ向かいました。弁当を一つと缶ビールを買い、夕方になる前に食卓へ並べます。
「定年後って、こんなに静かなのか」
独り言だけが部屋に響きました。
現役時代の隆志さんは、平日のほとんどを会社で過ごしていました。帰宅は午後10時を過ぎ、休日も接待ゴルフや資料作成に時間を使います。
「来週、長女の学校行事があるんだけど」
恵子さんにそう言われても、「仕事だから無理だ」と断ってきました。妻の誕生日を忘れた年には、高価なバッグを買って埋め合わせたつもりになっていました。
「家族のために働いているんだ」
それが隆志さんの口癖でした。しかし、妻や娘が求めていたのは、収入や贈り物だけではなかったのでしょう。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』では、60歳以上で収入を伴う仕事をしている人のうち、働く理由として「収入がほしいから」だけでなく、「働くのは体によいから、老化を防ぐから」「仕事そのものが面白いから」なども挙げられています。仕事は収入源であると同時に、生活の張りや人とのつながりを生む場でもあります。
隆志さんにとって会社は、まさに生活の中心でした。その会社を離れたとき、家の中に自分の居場所がほとんど残っていないことを思い知らされたのです。
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