「知らなかった」では済まない…定年前に見えた家計の穴
誠一さんは最初、怒りを抑えられませんでした。
「なんで相談しなかったんだ」
そう言うと、芳美さんは涙を浮かべました。
「私だって何とかしようと思っていたの。あなたは仕事で大変そうだったし、お義母さんのことも、子どものことも、私が処理すればいいと思っていた」
夫婦は長い間、家計について話し合ってきませんでした。誠一さんは稼ぐことが自分の役割だと思い、芳美さんは支出を管理することが自分の役割だと思っていました。その結果、重要な判断まで妻一人が抱え込んでいたのです。
金融広報中央委員会『家計の金融行動に関する世論調査(2023年)』では、老後の生活について心配している世帯が多く、その理由として「十分な金融資産がない」「年金や保険が十分ではない」「物価上昇への不安」などが挙げられています。老後資金への不安は、特別な家庭だけのものではありません。
誠一さん夫婦は、まず家計の全体像を整理しました。住宅ローン残高、退職金の見込み、保険、投資商品の評価額、親への援助、毎月の固定費。数字を書き出すと、何を見直すべきかが少しずつ見えてきました。
老後資金が十分ではない以上、定年後の働き方も考え直す必要がありました。誠一さんは再雇用で働くことを前提にし、芳美さんもパートの時間を増やすかどうか検討しました。車の買い替えは先送りし、使っていない保険やサブスクも整理しました。
「もっと早く話していれば、ここまで焦らずに済んだのかもしれない」
誠一さんはそう振り返ります。
家計の問題は、誰か一人の責任にすると解決しにくくなります。妻が黙っていたことは確かに問題でした。しかし、誠一さんも長年、家計を任せきりにしてきました。
収入があることと、お金が残ることはイコールではありません。年収750万円でも、支出が見えなければ老後資金は思ったほど貯まりません。
定年前に必要なのは、「たぶん大丈夫」という安心感ではなく、通帳、保険、年金見込み、退職金、毎月の支出を夫婦で確認することです。
妻から差し出された通帳は、誠一さんにとって厳しい現実でした。しかし同時に、老後に入る前に家計を立て直す最後の機会でもありました。
「この数字を見なかったことにはできない」
誠一さんは、そう言って通帳を閉じました。そこから夫婦の老後資金づくりは、ようやく始まったのです。
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