「最後は安心できる場所で」元教員夫婦が選んだ高級老人ホーム
俊夫さん(仮名・75歳)と妻の美智子さん(仮名・74歳)は、ともに元教員です。定年後もしばらくは自宅で暮らしていましたが、70代半ばになり、家の管理や通院の負担を感じるようになっていました。
「子どもに迷惑をかける前に、自分たちで決めておこう」
そう話し合い、夫婦は介護付き有料老人ホームを探し始めました。
見学した施設の中で、最も印象に残ったのが郊外にある高級老人ホームでした。明るいロビー、落ち着いた食堂、趣味の講座、看護職員の常駐。費用は安くありませんでしたが、夫婦には退職金や貯蓄がありました。
「ここなら、最後まで穏やかに過ごせそうだね」
美智子さんもそう言い、夫婦は入居を決めました。
総務省『家計調査(2025年)』によると、65歳以上の夫婦のみ無職世帯では、可処分所得約22.2万円に対し、消費支出は約26.4万円で、平均では毎月約4.2万円の不足となっています。老人ホームに入居する場合は、これに施設利用料や介護サービス費、医療費、日用品代などが加わることもあります。高級老人ホームでの暮らしは、資金計画を十分に立てたうえで選ぶ必要があります。
入居後の生活は、当初は順調でした。食事の準備や掃除から解放され、夫婦で読書会や音楽鑑賞会に参加する時間もできました。同じような経歴の入居者も多く、会話にも困りませんでした。
ところが、入居から数ヵ月が経ったある日のことです。食堂で昼食を取ろうとした俊夫さんは、少し離れた席に座る男性を見て足を止めました。
「まさか……」
その男性も、俊夫さんに気づいたようでした。
「俊夫か?」
名前を呼ばれた瞬間、俊夫さんの表情がこわばりました。
相手は、60年前の中学時代の同級生、藤原さん(仮名)でした。かつて俊夫さんが強く苦手意識を持っていた人物です。
「まさかここで再会するなんて……」
俊夫さんは、そうつぶやくのがやっとでした。藤原さんは悪びれる様子もなく、笑顔で近づいてきました。
「懐かしいな。お前、先生だったんだってな」
その言葉を聞いた瞬間、俊夫さんの胸に、忘れたはずの記憶がよみがえりました。
中学時代、藤原さんは俊夫さんをからかい、成績や家庭のことを笑った相手でした。周囲から見れば「子どもの頃のこと」かもしれません。しかし俊夫さんにとっては、長く心に残っていた傷でした。
