深夜の一本の電話が突きつけた、老いの現実
東京都内で会社員として働く健一さん(仮名・56歳)は、その夜のことを今もはっきりと覚えています。
「午前2時すぎでした。父から電話が来ること自体めったにないので、嫌な予感がしたんです」
電話に出ると、父・昭夫さん(仮名・83歳)の声は震えていました。
「すぐに来てほしい。母さんが大変なんだ」
健一さんの住居から実家までは、車で40分ほどかかります。母・和子さん(仮名・80歳)は数年前から足腰が弱り、通院の回数も増えていましたが、要介護認定は受けていませんでした。昭夫さんが家事の多くを引き受けながら、夫婦ふたりで暮らしを続けていたのです。
「父はずっと、“まだ俺がやれるから大丈夫”と言っていました。そう言われると、私もそれ以上強くは言えませんでした」
その夜、健一さんが実家に着くと、玄関の明かりはついたままでした。靴もそろわないまま散らかり、廊下には濡れたタオルが落ちていました。寝室に入った健一さんは、そこで言葉を失ったといいます。
母はベッドから半身をずり落とした状態で、ぐったりと横たわっていました。呼びかけると目は開くものの、返事ははっきりせず、額には汗がにじんでいました。父はその横で、パジャマのまま立ち尽くしていました。
「母さん、夜中にトイレに行こうとして倒れたみたいで……。起こそうとしても、俺ひとりじゃ無理で」
部屋には、取り換えられなかったシーツや、飲みかけの水、いくつもの薬のシートが散らばっていました。健一さんが言葉を失ったのは、母の様子だけではありませんでした。父が、ここまで追い詰められた状態で母を支えていたことを、その場で初めて思い知らされたのです。
「母が大変だ、というより、父も限界だったんだと分かりました」
すぐに救急要請し、母は搬送されました。後に分かったのは、脱水と感染症による体調悪化で、意識がもうろうとしていたということでした。消防庁『令和7年中の救急出動件数等(速報値)』によると、2025年中に救急搬送された高齢者は426万5,047人にのぼっており、高齢者の急病搬送が大きな割合を占めています。
搬送先の病院で、父は何度も同じことを口にしていたといいます。
「まさか、こんなことになるとは思わなかった。あと少し休めば、朝まで様子を見れば何とかなると思っていた」
