その後の秀吉の活躍
人間関係を見極め、信長の性格をしっかりとつかんだうえの作戦は見事に実って、まず突破口を開いた藤吉郎にとって、あとの道のりはそう難しいものではなかったと思います。
近くに仕えることさえできれば信長の信頼を勝ち得ることはできると踏んでいたはずです。藤吉郎は信長の性格をつかみ、人間関係をどうつくるか、その見通しを立てていたからです。
実際、藤吉郎は持ち前のアイデアと人懐っこい性格でめきめきと頭角を現し、普請奉行の山淵右近が命ぜられて20日経っても終わらせることができずに信長を怒らせていた清洲城の修復をわずか3日で終わらせ、さらに美濃の斎藤家に対する工作活動などを通して絶大な信頼を勝ち取ることを通して、着実に配下筆頭の武将となりました。
挑戦の成功が人間関係の見極めと新たな関係づくりに大きく関わっていることは、こうした歴史上の人物の逸話からも明らかです。
誰が天下を取るのか見極める
藤吉郎は「うつけ」といわれていた信長が、やがて岐阜から出て、天下を取るだろうと見極めていました。同時に、どうすれば近い将来の天下人の視野に自分が入るか、信長のどういうところを突けば自分に顔が向くかを考え抜いて行動し、成功しました。
どういう人が信頼され、事業で成功するか、今は戦国時代ではありませんが、私の知り合いで長年の銀行勤めから退き、今は経営コンサルタントのようなことをしている人が、あるとき私に「大野さん、事業で成功する人には明らかに共通点があります。なんとなく感じていましたが、今一度きちんと調べ直してデータにしてみたんです。そうしたらね、分かりました」と言って、一枚の紙を見せてくれました。
