一般的な法感情の観点からは違和感も残るが・・・
このように、本件は1300億円という巨額な贈与税を課税すべきか課税すべきでないかということが問題になったものですが、法廷で争われたのはあくまで事実の認定(事実認定)ではなくて、法律の解釈(法解釈)であったということになります。法解釈というのは、相続税法1条の2が規定する国内に住所があるかどうか、住所をどのようにみるべきか、ということです。これをめぐって、租税法律主義が要請する法的安定性、こういったものから民法の抽象概念を用いている、借用概念である以上はそれと同じように考えるべきである、ということで過去の判例を踏襲して、客観的な事実だけでみるべきですよ、と最高裁はいっています。
ただし、このような結論は、国民感情からすると不当であると感じられる可能性があります。このことについて配慮し、裁判長を務められた須藤裁判官は、補足意見で、次のように述べられています。
武富士事件上告審判決(最高裁平成23年2月18日第二小法廷判決・集民236号71頁)・須藤正彦裁判官の補足意見
既に述べたように、本件贈与の実質は、日本国籍かつ国内住所を有するAらが、内国法人たる本件会社の株式の支配を、日本国籍を有し、かつ国内に住所を有していたが暫定的に国外に滞在した上告人に、無償で移転したという図式のものである。一般的な法形式で直截に本件会社株式を贈与すれば課税されるのに、本件贈与税回避スキームを用い、オランダ法人を器とし、同スキームが成るまでに暫定的に住所を香港に移しておくという人為的な組合せを実施すれば課税されないというのは、親子間での財産支配の無償の移転という意味において両者で経済的実質に有意な差異がないと思われることに照らすと、著しい不公平感を免れない。国外に暫定的に滞在しただけといってよい日本国籍の上告人は、無償で1653億円もの莫大な経済的価値を親から承継し、しかもその経済的価値は実質的に本件会社の国内での無数の消費者を相手方とする金銭消費貸借契約上の利息収入によって稼得した巨額な富の化体したものともいえるから、最適な担税力が備わっているということもでき、我が国における富の再分配などの要請の観点からしても、なおさらその感を深くする。一般的な法感情の観点から結論だけをみる限りでは、違和感も生じないではない。しかし、そうであるからといって、個別否認規定がないにもかかわらず、この租税回避スキームを否認することには、やはり大きな困難を覚えざるを得ない。けだし、憲法30条は、国民は法律の定めるところによってのみ納税の義務を負うと規定し、同法84条は、課税の要件は法律に定められなければならないことを規定する。納税は国民に義務を課するものであるところからして、この租税法律主義の下で課税要件は明確なものでなければならず、これを規定する条文は厳格な解釈が要求されるのである。明確な根拠が認められないのに、安易に拡張解釈、類推解釈、権利濫用法理の適用などの特別の法解釈や特別の事実認定を行って、租税回避の否認をして課税することは許されないというべきである。
そして、厳格な法条の解釈が求められる以上、解釈論にはおのずから限界があり、法解釈によっては不当な結論が不可避であるならば、立法によって解決を図るのが筋であって(現に、その後、平成12年の租税特別措置法の改正によって立法で決着が付けられた。)、裁判所としては、立法の領域にまで踏み込むことはできない。後年の新たな立法を遡及して適用して不利な義務を課すことも許されない。結局、租税法律主義という憲法上の要請の下、法廷意見の結論は、一般的な法感情の観点からは少なからざる違和感も生じないではないけれども、やむを得ないところである。
事実認定の問題ではなく法的判断
もちろん、受贈者の住所が香港であったのか、日本であったのかという点は、事実認定の側面があることは否めません。端的にいえば、内容をみずにいえば、これは事実認定の問題と捉えるほうが、素直でしょう。しかし、住所がどこであるかは、法的判断になります。
この点で、単純な事実認定の問題ということはできず、この武富士事件は「住所」がどこであるかの法的判断をどのように行うべきかという、法解釈の問題が中心的論点であったということができます。