「客観的に見るべき」と強調した最高裁判決
具体的に判決をみていくと、最高裁判決は、住所の法解釈については、次のように判示しています。
武富士事件上告審判決(最高裁平成23年2月18日第二小法廷判決・集民236号71頁)
法1条の2によれば、贈与により取得した財産が国外にあるものである場合には、受贈者が当該贈与を受けた時において国内に住所を有することが、当該贈与についての贈与税の課税要件とされている(同条1号)ところ、ここにいう住所とは、反対の解釈をすべき特段の事由はない以上、生活の本拠、すなわち、その者の生活に最も関係の深い一般的生活、全生活の中心を指すものであり、一定の場所がある者の住所であるか否かは、客観的に生活の本拠たる実体を具備しているか否かにより決すべきものと解するのが相当である(最高裁昭和29年(オ)第412号同年10月20日大法廷判決・民集8巻10号1907頁、最高裁昭和32年(オ)第552号同年9月13日第二小法廷判決・裁判集民事27号801頁、最高裁昭和35年(オ)第84号同年3月22日第三小法廷判決・民集14巻4号551頁参照)。
ポイントは、客観的にみるべき、ということをいっている点です。
そこには「主観」を用いてよい、とは書かれていません。こういった、法律の解釈問題に出てくる、本件でいえば相続税法の1条の2にいう住所をどのようにみていくべきか、という部分を、規範というふうにいったり、判断枠組み、あるいは基準といいます。住所がどこにあるかをどのような基準で見るべきか、ということについて、裁判所は、相続税法の解釈(法解釈)をしたのです。ここで客観的にみるべきだというのを強調したのが、最高裁判決です。
「拘束力」はないが「踏襲」されていく過去の判例
そのあとに括弧書きがあり、過去の判例が「参照」ということで引用されていますよね。上記判示の以下の下線部分になります。
武富士事件上告審判決(最高裁平成23年2月18日第二小法廷判決・集民236号71頁)
……住所であるか否かは、客観的に生活の本拠たる実体を具備しているか否かにより決すべきものと解するのが相当である(最高裁昭和29年(オ)第412号同年10月20日大法廷判決・民集8巻10号1907頁、最高裁昭和32年(オ)第552号同年9月13日第二小法廷判決・裁判集民事27号801頁、最高裁昭和35年(オ)第84号同年3月22日第三小法廷判決・民集14巻4号551頁参照)。
これは、「先例拘束力」の議論です。過去の判決(最高裁判決)に含まれるレイシオ・デシデンダイ(主論ともいわれます)が、その最高裁判決の結論を導くにあたりコア(核)となった理由が書かれている部分(判決の結論を基礎づける主たる理由が書かれている部分)については、後の裁判所も、事実上の拘束を受けるということです。そういうことが、この「参照」とある判決から読み取れます。
「先例拘束力」の議論については、前著でも説明しましたが、日本は大陸法系の国で「成文法主義」の考え方に基づいています。英米法のような「判例法主義」(判例に法的な拘束力が生じる考え方)の国ではありませんので、裁判所の判決といっても、他の事件に対して法的な拘束力は生じません。
しかし、このように、過去に出た先例は「参照」されることで、事実上、これが踏襲されていく、ということです。そのような場合、このように、括弧書きで、参照された先例が判決文のなかに記載されます(こうして引用される数が多いほど、先例性の高い判例である、ということもできます)。