27歳でサラリーマンから突然、父の会社を引き継ぐことに
具体的な付加価値額経営の内容に入る前に、まずは私がどのようなきっかけで付加価値額経営と出逢い、会社を現在のように成長させるに至ったかについてお伝えしたいと思います。
経営者になる方法と言えば「起業」か「事業承継」だと思いますが、起業家のように何かしらの熱い想いを持って経営者になったわけではありません。
先に言ってしまうと、私は経営の天才でもなければ、子供の頃から父親によって英才教育を受けて引き継ぐべくして会社を引き継いだわけでもなく、いずれは会社を継ぐことを漠然とは感じてはいましたが、それまでは東京の企業で働くサラリーマンでした。
子供の頃はむしろ経営者よりもオリンピックで金メダルを獲ることを夢見ていました。小学校3年生の頃から地元の警察道場で柔道を習い、高校時代は高校総体や国体に優勝候補の1人として出場し、共に全国ベスト8の成績を残すところまで行きました。しかし、大学進学後にオリンピックを目指し猛練習に励む最中、左肩を複雑骨折する重傷を負いました。その結果、競技引退を余儀なくされ、大きな挫折を経験しました。
大学卒業後は日立製作所の子会社「日立電子システムサービス(現・日立国際電気)」に就職。電気通信工事およびメンテナンスの仕事に従事していました。
いずれは家業を継ぐことを念頭に働いていましたが、かといって家業に大きな期待を寄せていたわけではありませんでした。
九昭電設工業は、国鉄(現・JR)の電気技師だった父が個人事業者として電気工事業をスタートさせたあと、昭和41年(1966年)に有限会社化し、昭和45年(1970年)に株式会社になりました。
私が引き継いだのは昭和61年(1986年)ですから、27歳で引き継いだ時点で創業20年ほどの企業だったわけです。
しかし、企業体としては売上1億5,000万円、経常利益300万円、従業員15人ほどの零細企業(小規模企業)でした。当時の私は売上1億5,000万円がどのくらいのレベルかもわかっていない素人だったので、事業承継といってもそれほど大袈裟な期待を寄せてはいなかったのです。
そんな家業を、ある日いきなり私は継ぐ運びとなりました。50代も後半に差しかかった父が別事業を始めるにあたって大本の電気工事業を私に任せる意向を伝えてきたのです。そのあと10年ほどで亡くなってしまったので、もしかすると体が弱ってきていることを薄々感じていたのかもしれません。
とにかく私は日立電子システムサービスを退職し、それまでの住まいだった東京から地元の北九州市に戻ることになりました。27歳のときでした。
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