震災で銀行が危機に陥ったワケ
大正後期、関東大震災で震災恐慌(1923)が発生すると、被災企業【図のA社】が決済期日を守るのは困難となり【図①②③】、〔第2次山本内閣〕は1ヶ月間のモラトリアム(支払猶予令)で決済先送りを指示しました。
しかし、銀行が所持する手形には、決済不能な不良債権となるものがありました【④⑤⑥】。こうした震災手形の発生に対し、政府は日本銀行に指示して特別融資を行わせました【⑦】。
しかし、これは一時しのぎで、銀行は、手形を振り出した企業から支払いを受けて決済を完了し、特別融資を受けた分を日本銀行に返さなくてはなりません。
しかし、まだ企業の経営は回復せず、決済が完了していない震災手形が残り、銀行の経営に対する不安が広がりました。
金融恐慌が発生した要因
第1次若槻内閣のとき、どのように金融恐慌が発生したのか?
昭和初期、憲政会が与党の〔第1次若槻内閣〕は震災手形の処理(手形の決済)を図りましたが、法案審議中に片岡直温蔵相が「東京渡辺銀行が破綻した…」と失言すると(実際は破綻していなかった)、預金引出しに殺到する取付け騒ぎが発生して銀行の休業が相次ぎ、金融恐慌(1927)が拡大しました。
こうしたなか、第一次世界大戦で急成長した商社の鈴木商店が経営危機となり、融資元の台湾銀行(植民地台湾の中央銀行)が不良債権を抱えました。
政府は日本銀行からの融資で台湾銀行を救済するため、天皇大権の緊急勅令を用いようとしましたが(当時帝国議会が閉会中であったため)、天皇諮問機関の枢密院は緊急勅令案を否決しました。
枢密院は、中国で進行していた北伐を放置する幣原外交に不満で、台湾銀行救済を失敗させることで内閣を総辞職に追い込んだのです。
田中義一内閣は、どのように金融恐慌を沈静化させたのか?
〔田中義一内閣〕は元首相の高橋是清を蔵相に迎え、与党立憲政友会の積極財政方針で銀行救済を進めました。
3週間のモラトリアム(支払猶予令)で、銀行に預金者への払戻しを一時停止させて、取付け騒ぎを収めました。同時に、日本銀行に銀行への非常貸出を行わせました(日本銀行は片面印刷の紙幣を大量に発行して供給)。
こうして、金融機関に対する不安が解消されると、金融恐慌は終息しました。
金融恐慌の結果、経済界にはどのような状況が生じたのか?
財閥系中心の五大銀行(三井・三菱・住友・安田・第一)に預金が集中する一方、中小銀行の整理・統合が進みました。また、財閥が系列銀行を通して企業に融資し産業支配を強めました。
一方、「憲政の常道」が展開するなかで、政党との結合を深めました(三井と立憲政友会、三菱と憲政会・立憲民政党)。
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