昭和元年ごろの日本について
1926年に大正15年から昭和元年に移行したころ、〔第1次若槻礼次郎内閣〕の幣原喜重郎外相が協調外交を継承していました(幣原外交)。
彼は護憲三派内閣(〔加藤(高)①〕)・憲政会内閣(〔加藤(高)②〕〔若槻①〕)で外相を務め、欧米に対しては協調、中国に対しては内政不干渉を原則としつつ、満州などでの既得権益の維持を図りました。
緊縮財政を党是とする憲政会が与党の内閣では、軍拡による軍事的進出が困難であり、経済的進出を充実させたのです。
中国への対応で「追い込まれる」幣原外交
中華民国では、各地を割拠する軍閥が北京政府の実権をめぐって争いました。一方、革命運動を主導する孫文は、国民党を率いて中国南部に勢力を拡大しました。
孫文は、北京政府(軍閥連合)の解消と国民国家の樹立を望み、社会主義革命をめざす共産党と協力して第1次国共合作を結成しました。
孫文の死去後は国民党内で蔣介石が台頭し、国民革命軍を率いて北京政府を打倒する北伐を開始しました(1926)。蔣介石は南京を占領して国民政府を樹立したものの、共産党と敵対し(国共分裂)、国民革命軍が単独で北伐を続けました。
〔第1次若槻内閣〕の幣原喜重郎外相は、対中国内政不干渉の方針のもと、北伐には介入しませんでした。
しかし、北伐が満州まで及ぶと危険だと考えた軍部・枢密院・野党立憲政友会が、幣原外交を「軟弱外交だ!」と非難しました。枢密院は、内閣に金融恐慌の処理を失敗させ、総辞職に追い込みました。
日本はパリで「不戦条約」に調印した
与党は立憲政友会に移り、〔田中義一内閣〕では田中義一が外相を兼任しました(田中外交)。
欧米に対して協調を維持した点は、幣原外交と共通でした。日本はジュネーブ軍縮会議に参加し、米・英・日で海軍軍縮を協議したものの、不調に終わりました。
また、戦争の違法化を進める国際的潮流を背景に、国際紛争解決の手段としての戦争を放棄する不戦条約(1928)をパリで調印しました(日本国憲法第9条「戦争放棄」につながる源流の一つ)。
一方、中国に対して強硬方針で臨んだ点は、幣原外交と異なりました。中国権益を実力で守ろうとしたのです。
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