満州事変に至る背景と勃発後の経緯
北伐の完了後、中国ではナショナリズムが高揚し、欧米や日本から権益を取り戻す国権回収運動が進行しました。これに対し、重要な資源供給地・市場である満州は「日本の生命線」だと叫ばれ、関東軍は石原莞爾らを中心に満州占領計画を立てて軍事侵略で権益を確保しようとしました。
当時、国民政府(蔣介石)は国内統一深化のため、共産党との国共内戦に注力していました。
関東軍は、奉天の郊外で満鉄の線路を爆破する柳条湖事件(1931.9)を起こし、これを中国側の策略だとして、自衛を口実に軍事行動を開始し、満州全土を占領しました(満州事変 1931~33)。これは九カ国条約に違反する可能性があり、立憲民政党が与党の〔第2次若槻内閣〕は幣原外相のもとで不拡大方針をとりました。
しかし、世論やマスコミは軍の行動を支持し、事態を収拾できず総辞職しました。協調外交方針の幣原外交は、こうして終わりました。
立憲政友会が与党の〔犬養毅内閣〕に変わると、中国本土で日本軍が中国軍と衝突する第1次上海事変も発生しました。
国際連盟の動向にどのように対処したのか
国民政府は、満州事変への軍事的な対応には消極的で、国際連盟に提訴しての解決を図りました。国際連盟はリットン調査団を派遣し、「自衛」という日本の主張と「一方的な侵略」という中国の主張の正否を調査しました。
ところが、調査の終了前に、関東軍は清の最後の皇帝だった溥儀を執政として、満州国の建国を宣言させました。〔犬養内閣〕は、満州国を承認しないまま五・一五事件(1932)で倒れ、海軍の〔斎藤実内閣〕は、日満議定書を結んで満州国を承認しました。満州国は、日本の軍人・官僚が実権を握る、事実上の植民地でした(のち溥儀は皇帝となる)。
その後、リットン報告書(日本軍の行動や満州国の存在を否定)が提出され、国際連盟の臨時総会が開催されて日本軍の撤兵を求める(ただし日本の満州権益は認める)対日勧告案が可決されると、これに反対した全権の松岡洋右らが総会から退場しました。その直後に日本は国際連盟脱退を通告し、国際的孤立の道を歩むことになります。
最終的に塘沽停戦協定(1933)で満州事変は終結し、国民政府(蔣介石)は満州国の存在を事実上黙認しました。その後の満州国では、昭和恐慌の被害を受けた農村からの開拓移住政策が進められました。
海軍の〔岡田啓介内閣〕のとき、日本はワシントン海軍軍縮条約廃棄を通告し、ワシントン体制から離脱して大軍拡を開始しました。
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