旧暦→太陽暦が採用され、人びとの生活リズムに変化
文明開化は政府が近代化を推進した明治初期の文化です。
「近代」を理解するため西洋思想の摂取が進み、森有礼らによる明六社が『明六雑誌』を発刊して啓蒙思想を広め(福沢諭吉『西洋事情』『学問のすゝめ』、中村正直『西国立志編』『自由之理』)、中江兆民が『民約訳解』で紹介した天賦人権思想が民権運動を支えました。
また、政府は近代国家の構成員の育成を目的に公教育制度を採用し、学制(1872)で国民皆学を示して小学校を重視し(負担に反発した学制反対一揆も発生)、教育令(1879)で自由主義的制度にしました。
宗教では、政府が神仏分離令で神仏習合を否定し(仏教に対する廃仏毀釈の攻撃も発生)、大教宣布の詔で神道国教化をめざしたが失敗し、紀元節(神武天皇の即位)・天長節(明治天皇の生誕)などの祝祭日で天皇権威の浸透を図りました。
一方、五榜の掲示でのキリスト教禁止は、のち撤回されました。太陰太陽暦(旧暦)の廃止と太陽暦(1873)の採用で、人びとの生活リズムが変化しました。
また、東京の銀座に煉瓦造・ガス灯が登場し、人力車が各地を走り、ざんぎり頭が文明開化の象徴とされ、牛鍋が流行しました。
教育制度が変化し、就学率が100%近くに上昇
明治の文化は、立憲体制の成立を経て近代国家が確立した時期の文化です。
●思想:1880年代後半に井上外交が行き詰まると、政府の欧化を貴族的だと批判する徳富蘇峰(平民的欧化主義、民友社の雑誌『国民之友』)と、欧化への懐疑を主張する三宅雪嶺(国粋保存主義、政教社の雑誌『日本人』)・陸羯南(国民主義、新聞『日本』)が論争し、日清戦争後には高山樗牛(雑誌『太陽』)の日本主義や徳富蘇峰の対外膨張論など、国家主義が拡張しました。
●教育:森有礼文相による学校令(1886)で制度整備が進み(小学校の義務教育化や帝国大学)、教育勅語(1890)で明治憲法体制を支える忠君愛国が強調されました(奉読をめぐり内村鑑三不敬事件が発生)。
明治末期には教科書が検定制から国定制となって統制が進む一方、義務教育が4年から6年へ延長され、就学率は100%近くに上昇しました。私立学校として、慶應義塾(福沢諭吉)・同志社英学校(新島襄)・東京専門学校(大隈重信)・女子英学塾(津田梅子)が著名です。
●学問:外国人教師による西洋学術の導入に加え、日本人による研究も進展しました。自然科学では、北里柴三郎(ペスト菌、伝染病研究所)や志賀潔(赤痢菌)、高峰譲吉(タカジアスターゼ・アドレナリン)や鈴木梅太郎(オリザニン)、長岡半太郎(原子構造)、大森房吉(地震計)が活躍しました。
●出版・文学:大新聞(政治評論)と小新聞(娯楽中心)が発展し(『横浜毎日新聞』が初の日刊新聞)、総合雑誌(『中央公論』など)が登場しました。
明治初期の文学は、江戸文学系の戯作文学(仮名垣魯文)や民権運動を宣伝する政治小説でしたが、1880年代に欧化の影響を受けて登場した写実主義(坪内逍遙の評論『小説神髄』、言文一致体による二葉亭四迷『浮雲』)は西洋文芸理論により客観的描写を重視し、近代文学の出発点となりました。
1890年代には人間の自由な精神と感情表現を重視するロマン主義(北村透谷の雑誌『文学界』、樋口一葉・与謝野晶子)や俳句の革新運動(正岡子規)、1900年代には社会の現実をありのままに描く自然主義(田山花袋・島崎藤村)、明治末期には国家と個人の内面との対立を描く反自然主義(夏目漱石)が登場しました。
●芸術:民権運動を宣伝する壮士芝居(川上音二郎がオッペケペー節を歌う)から発展した新派劇に対し、明治末期に登場した近代劇の新劇では、文芸協会(島村抱月)や自由劇場(小山内薫)が海外の脚本を翻訳・上演しました。
美術は、政府主導で西洋画が勃興し(高橋由一)、1880年代には伝統美術の復興で日本画が隆盛し(アメリカ人フェノロサ・岡倉天心の尽力で東京美術学校)、のち西洋画は浅井忠(明治美術会)・黒田清輝(白馬会、『湖畔』)らの活躍で盛んになりました。
彫刻では伝統木彫の高村光雲と西洋ブロンズの荻原守衛、建築ではイギリス人コンドル(ニコライ堂)が著名です。
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