峻烈な光、そして深い影
鈴木が運命のように遭遇した「足尾銅山」。足尾銅山は日本の近代に峻烈な光を残した。光が強いぶん影も濃い。明治期、日本一の生産量を誇り、殖産興業の誉れではあったが、日本で最初の公害事件「足尾銅山公害事件」の舞台にたった。鉱毒で被害を受けた渡良瀬川流域の農民らが大衆運動を起こした歴史的な事件だ。
旧足尾町(現日光市)は渡良瀬川の上流で、備前楯山が銅発掘の中心地だ。現在のわたらせ渓谷鐡道足尾駅から北西約2キロのところにある。足尾銅山は1550年に発見されたとされている。江戸時代は幕府の管理下におかれ、1877年、創業者古河市兵衛の「古河」が経営を始める。
1884年、足尾の産銅量は日本一となる。1905年個人経営から会社組織に変更。社名を「古河鉱業会社」とする。その後数の社名変更をされ、現在の「古河機械金属株式会社」に至る。便宜上、「古河」と表記する。
明治政府が進めた富国強兵政策をとるなか、「古河」の足尾銅山は外貨を稼ぎ、日本の近代化に大きく貢献した。銅山の最盛期にあたる1916年、足尾町の人口は3万8428人で栃木県内二位だった。第二次大戦後も採掘は続いたが、海外の鉱石輸入におされるとともに、鉱脈の枯渇などにより、1973年に閉山した。掘られた坑道は延べ1234キロに及ぶ。
日本最初の公害事件
一方で、足尾銅山は、近代日本最初の公害事件「足尾鉱山鉱毒事件」の舞台となる。銅山から流出する鉱毒で被害を受けた渡良瀬川流域の農民らが操業停止を求めて立ち上がった。1894年、栃木県出身の国会議員田中正造が帝国議会で鉱毒問題を質問、1903年、田中は明治天皇に直訴した。
画家鈴木喜美子が足尾に足を踏み入れた1978年は、銅山の鉱脈は掘り尽くされ、輸入鉱石を搬入して操業する精錬の工場が稼働していた頃だ。操業開始から一世紀が過ぎていた。近代日本産業の盛衰を沈殿させたような土地だった。
歴史も公害も知らなかった
鈴木の足尾通いは1978年から始まった。その冬から週に一度のペースで足しげく通った。最初は外から眺めているだけだった。銅山の歴史も公害事件のことも知らなかった。その後、独学で知識を増やし、地元足尾に生きる人を通じて足尾になじんでいく。
冬場、たまたま立ち寄った靴店の主人に、足元を注意された。「絵描きとして」足尾を歩いていると聞いた靴店主は黙ってゴム長靴を鈴木に差し出して、勧めた。これがきっかけで鈴木の「身元保証人」となり、彼女は町の教育庁や婦人会のメンバー、無縁仏が眠る寺の関係者、銅山を管轄する古河関係者にも知己を得ることになる。愚直で真摯に足尾に向かい合う鈴木の姿勢が周囲を動かしていく。
モノクロームから色が出るように
足尾を描く鈴木の油彩画は、1980年代半ばまで、冬一色だった。白と黒を基調にして、山の稜線を生かした緊密な構成となっている。画調はさびしくて、厳しい。90年代になると、色合いが少しずつ戻ってきた。銅山の資料も読んだ、公害のことも知った。かつての足尾の様子を後世に伝えたいと願う元町民や古河関係者とも知り合い、「足尾を咀嚼できるようになった」と鈴木は振り返る。
このころの作品では、暖色系の色があらわれ、寒色との融合を意識するようになった。それは鈴木の心の変化の表れだった。「色が付いてきた。描く山の形が変わってきた」と鈴木は言い、自身も転換点の時期と位置付ける。
鈴木に再生の光が差してきた。と同時に、足尾の「環境」も再生の兆しが表れていた。