「自己責任」とはなにか?
そもそも人間は社会のなかで生き、社会のなかで自己実現を果たす存在です。つまり、本人の望む・望まないにかかわらず常になんらかの「組織」に所属しているといえます。 つまり、そこに属する我々「個人」は、「組織」とは切っても切れない関係にあります。
ですから「自己責任」というものは「組織の一員としての“個人”の責任」ともいえます。そういう意味では「いまを生きる国民の責任」発言はあながちおかしくはないといえるかもしれません。
しかし、これを会社に置き換えた場合はどうでしょうか。「会社が経営難なので皆さんの給与を減らします。我慢してください」と経営責任を棚に上げて、社員に一方的な負担をかけることで安易に解決を図っているように見え、「それは無責任なのでは?」という意見もあるでしょう。
従業員側の選択権がある会社とは違って、所属する国は転職すればいいというわけにもいかないのでなおさらです。信じて選んだ政治が、自らの責任を全うする以前に国民に負担を押し付けるのはけしからん、という論調になるのも理解できます。
岸田首相が修正した「連帯責任」という言葉
そこで岸田首相は上記の言葉の表現を修正しました。「国民」に「自分たち」を加えて、「我々の責任」であるとしました。 つまり、国民であれば日本国の未来に対して「連帯責任」があるので、負担をわかち合うのは当然であるとなるわけです。
しかし、これは国民から納得感を得ることはできませんでした。なぜなら、組織においては、1つの責任を複数名でわかち合うということはできないからです。結果的に発生した負債を分配して負担しなければならない、それを「連帯責任」というだけで、組織においては1人ひとり役割と責任が存在するため、それ自体を誰かとわけ合うことは構造上不可能です。
空振り三振したバッターに対しての監督の発言「ごめんな、この場面で代打に出したせいで三振させて悪かったな」
⇒選手「監督は悪くないっす。お互いさまですよ」
上記のような会話は成立しません。組織において上位者は意思決定の責任があり、下位者は指示に対する実働責任が存在します。監督は采配ミスの責任を問われますが、三振したのは選手の責任です。それぞれが責任を問われ、改善を要求されます。
また、会社を例にすると
経理が見積もり書作成でミス
⇒営業担当が経理のミスに気付かず、そのまま顧客に提出し、失注
上記のようなとき、経理担当と営業担当で責任の押し付け合いが起こるかもしれません。しかし、組織においては同位の横並びであってもそれぞれの責任範囲があります。この場合経理は見積もり作成ミスをしたことへの責任を問われ改善をしなければなりませんし、営業は失注したことに対しての責任を問われ改善を要求されます。
「連帯責任」という言葉で責任の所在を曖昧にしている組織では、成長につながる改善が見逃されてしまいます。組織のなかの個人がそれぞれの責任を全うするために改善、成長しなければ組織も成長せずに衰退していくだけです。つまり責任の所在を曖昧にすると最終的に誰も得はしないため、それは「悪」といえます。