基準を明確化した「太閤検地」
秀吉の大きな業績の1つが太閤検地の実施です。太閤検地とは、大名が田畑の調査を行い、土地の権利関係をまとめたうえで、年貢の負担者を決めるというものです。
太閤検地が行われるまで、大名がそれぞれ独自に検地を行い、年貢量を算出していましたが、ほとんどは所有者からの自己申告であり、正確な情報は得られていませんでした。というのも、日本の土地制度は時代が経るにつれて変わっていったため、たとえばある1つの土地の所有者が複数いるといった事態は珍しくなく、複雑な権利関係のせいで、合理的な年貢の徴収は難しい状態だったのです。
秀吉の太閤検地によって、農地を正確に測量し、農民を耕作者兼年貢の負担者として登録(一地一作人の原則)したことで、不透明だった年貢の納入経路が明確になり、無駄なく徴税できるようになりました。これにより、それまでの土地制度は白紙になり、すべての土地の管理者は秀吉となったのです。
このとき、測量単位の統一も行われました。日本ではそれまで、単位の基準が曖昧だったのです。たとえば、長さの単位には「尺」が使われていましたが、当時は地域によって1尺の長さが違っていました。重さや面積の基準、年貢米を計量する枡の容量も同様で、これでは正しい情報が得られません。
そこで、秀吉は全国どこでも同じ測量結果が出せるようにと、バラバラだった単位の基準を定めます。例を挙げると、1尺を現在の単位でいう30.3cm、1寸はその10分の1の3.03cm、1間を6尺3寸とし、枡は「京枡」を使うなど、単位ごとに決まりを設け、検地では必ず同じ道具で測量するように命じました。
こうして測量した田畑は、土壌の質や地形、灌漑設備の有無などを基準に、上・中・下・下々の等級に分類されました。正確な収穫高がわかるようになってからは、実際の収穫量で土地の価値を示す「石高制」に移行します。
「石」は容積を表す単位で、米1石は現在の約180リットルに相当します。水田以外の畑については、米に換算した生産高で表しました。石高制は江戸時代にも引き継がれ、明治時代に「地租改正」が行われるまで続きます。農民は石高によって年貢が決まり、藩の財力や武士の給与も石高で示されたのです。
農民が自分の土地を持ち、耕作量に応じて年貢を納める太閤検地のシステムは、当時は大変画期的でした。秀吉の政敵であった徳川家康がそのまま引き継いだことからも、完成度の高い政策だったことがうかがえます。
ルールが統一されていないと、組織が非効率になりがち
太閤検地から学ぶことができるマネジメントのポイントは、基準およびルールの統一化、明確化が大事であるということです。太閤検地以前がそうであったように、曖昧な基準やルールは、非効率すなわちロスタイムを生んでしまいます。
あなたの組織でもこんなことはありませんか?
・使っているアプリが異なっていたり、同じでもバージョンがバラバラだったりして互換に手間取っている
・社内でのコミュニケーションの仕方がメモやSNS、社内掲示板、メールなど統一されていないため、確認に手間取ったり、見落としが発生したりする
・責任の所在が不明な業務があり、エラーが起きたときに責任の擦り付け合いが起きる
こうした曖昧な基準やルールを統一し、明確にすることで組織内のメンバーの迷いを取り除き、効率的な業務遂行を促すことができます。
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