「戦国三英傑」のひとり織田信長
織田信長は、豊臣秀吉、徳川家康とともに「戦国三英傑」と称され、日本の後期封建社会の基礎を築いた人物といえます。天下布武の号令のもと各国を平定し、戦国の日本を統一寸前まで進めていった人物です。
信長の生国は現在の愛知県、当時は尾張国と呼ばれる地域で、近隣の国々には、今川家や斎藤家、武田家ら名だたる武家が領地を持っていました。そんな大国に囲まれながらも勢力を拡大していくことができたのには理由があります。それが、時代の先を行く組織づくりです。
兵農分離による組織づくり…日本史史上初の「職業兵士」が誕生する
信長の誕生前、尾張国は弱小国に過ぎませんでした。というのも、それまで戦は数の原理にて雌雄が決していたため、狭小国の尾張はそもそも兵の数が少なく、結果的に弱小国の立場に甘んじていたのです。
信長の父、織田信秀も勇猛な武将であったと伝えられていますが、自国の領土を守ることに精一杯で、領土を拡大するまでの余裕はなかったようです。しかし、信長が当主となってからは状況が大きく変わりました。桶狭間の戦いに始まり、足利義昭の擁立、幕府再興などそれまでの武将が成し遂げられなかった偉業を次々と達成していくのです。
背景には、兵農分離による組織づくりを経て織田家の軍事力が高まってきたことがあります。信長は自身が家督を継いで以降、農家の次男坊や三男坊などを積極的に兵として登用しました。犬千代こと前田利家も士豪(田舎の親分)の四男だったようです。これが後の兵農分離の原型となり、日本史において初めて職業兵士が誕生したといわれています。
それまで、兵士の多くは農民であり、戦が始まるとその都度招集されていました。農民の主たる仕事といえばもちろん農業です。農民は種植えや刈取りを通じて自分たちの生計を立てていますし、年貢も納めなければなりません。生きていく糧を得るためには、戦ではなく農業が必要なのです。
ですから、大名が農繁期に戦を起こしてしまうと、大半の兵は戦への集中力など発揮することはできません。所説ありますが、戦国最強とうたわれた軍神上杉謙信が天下を手中に収められなかった理由の1つに、この点が関係しています。
12月~2月は、そもそも雪の影響で進軍ができません。4~5月は種植えのシーズンですし、9~10月も収穫のシーズンであるため兵が集まりません。こう考えると、大きく兵を動かせる期間は6~8月の3ヵ月程度しかなかったのです。領民を大切に扱った謙信ですから、なおのこと無理な出兵はできなかったのでしょう。
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