NHK大河『どうする家康』徳川家康が織田信秀、今川義元の人質になった意外な経緯

NHK大河『どうする家康』徳川家康が織田信秀、今川義元の人質になった意外な経緯
(※写真はイメージです/PIXTA)

徳川家康は10代になる以前から「人質暮らし」を強いられ、さまざまな苦労や嘆きや悲しみを味わいました。過酷な境遇のなかで、家康は「波瀾の10代」を送ることになります。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。

人質暮らしの「波瀾の10代」送った家康

■少年時代の非凡なエピソード

 

人質時代の徳川家康が並みの少年でなかったことは、以下の数々のエピソードからわかる。

 

まずは、『古老諸談』に載っている話で、安倍川(静岡市)の河原で催された端午の節句のイベント「石合戦」を見物に行った10歳のときの出来事から。

 

石合戦とは、川を挟んで二手に分かれ、石を投げ合って多く当てた方が勝ちという危ない遊びだが、当日の合戦では双方の人数は同じではなく、2対1だった。多い方が勝つに決まっていると誰もが思ったが、竹千代は「人数が半分のチームが勝つ」と予言し、的中させた。理由を聞かれると、「大勢いると人数を頼ってしまうが、少人数だと必死になるからだ」と答えた。

 

次も同じく10歳のとき。義元の屋敷で開催された新年祝賀会でのエピソード(『紀年録』)だ。集まった今川家の家臣のなかには、竹千代を知らない者が結構多かった。「あれは誰の子か」といっている声を耳にした竹千代は、つっと席を立って縁側へ行くと、庭に向かって放尿した。

 

それを見た多くの者は目を見張って、「肝っ玉の太い子だ。末頼もしい」と感心した。

 

武将と鳥のエピソードは、わかりやすいからか、数多い。日本武尊が死んで白鳥になった伝説とか、源平時代の富士川の合戦で鳥が一斉に飛び立つのを敵が潜んでいると早合点して浮き足立った平家の実話とか、鳥がらみの話は掃いて捨てるほどあり、家康にも複数ある。

 

何歳だったかは不明だが、駿府の大祥寺という禅寺へ遊びに行ったときに庭に鶏が20羽くらいいるのを見て、竹千代は「1羽もらえないか」と僧にいった。すると僧が「1羽といわず、全部、さしあげよう。ここにいる鶏は、田畑を荒らしはするが、ほったらかしにしておいても勝手に大きく育つので、そのまま飼っているのです」といったので、竹千代は「この法師は卵を食うことを知らないとみえる。気の毒な人だ」と返したという。『君臣言行録』にある話だ。

 

次も鳥の話だが、そのときの年齢は不詳。熱田の神主が竹千代を慰めようと思って黒ツグミを献上したが、受け取らず、そのわけをこう話した。「この鳥は物まねは得意だが、自分の本音はない。真似ばかりする鳥は大将たるべき者にふさわしくない」と。

 

鳥の話は、もう1つある。これも10歳のときだ。百舌鳥を鷹に見立てて鷹狩の稽古をしていたが、遊び友だちとして岡崎から連れてきていた鳥居元忠が鈍感で、何度やってもうまくできないのを見て、縁側から蹴り落した。その話を聞いた元忠の父忠吉は「何と末頼もしい振る舞い。清康公の再来だ。普通の君なら気を遣って何もしなかったに違いないが、心のままに愚息を戒められた」と大喜びしたという。これは『鳥居家譜』にある。

 

15歳のときの話は、のちのちの語り草になっている。亡父の法事に岡崎城へ帰ったが、本丸には今川が派遣した城代がいたので、気を遣って二の丸に行った。そのことを知った今川義元は感心し、「景虎」を名乗っていた頃の上杉謙信は「のちには稀代の良将になろう」と褒めちぎったという。このエピソードからは、家康が「気づかいの人」だったことが知れるが、幼少時から「人質」として生きて行くなかで自然と育まれた〝後天的性格〟と考えるべきだろう。

 

■8つも年上の女と結婚

 

今川義元の勧めで家康が結婚したのは、人質時代の16歳のときである。いうまでもなく、政略結婚で、相手は8つも年上の24歳(10歳年長説もある)。義元の姪に当たる瀬名姫で、今川の目の届く「人質屋敷」と呼ばれるところで結婚生活を送る。

 

その庭に築山があったことから、築山殿といわれるようになるが、名門出を鼻にかけるところがあったり、性格がきつかったりして、姑との間がしっくりいかなかったこともあり、息子と結託して武田信玄と通じたとの疑いをかけられるに及んで、信長が家康に殺害を指示することになる悲劇の人である。

 

結婚の翌年(1559〈永禄2〉年)3月、嫡男の男子が誕生し、家康の幼少時代と同じ竹千代という幼名をつけられるが、“呪われた子”とされた。松平家には「未年生まれの子は長生きできない」という不吉な言い伝えがあったからだ。その予言は的中し、21歳で自害することになる。

 

家康の女性観は、3歳で母と引き裂かれたことに加えて、結婚当初の夫婦生活を築山殿にリードされたことが原因で、マザコン気味だった可能性が高いと私は考えている。

 

家康は、生涯を通じて、わかっているだけでも17人の側室がいたが、容貌や若さにはまったくこだわらず、しかも年増や後家が好みだった。そういうところにも、家康流の現実主義・実用主義的生き方が感じられる。

 

その点、秀吉とは大違いである。秀吉は、生まれが下賤で猿っぽい顔だった反動として、家柄や美貌に執拗にこだわり、側室には美女ばかり集めたが、その一方でマザコンでもあり、その対象が美人に加えて“第2の母”のような包容力も備えた正室のおね(寧々)だった。

 

信長はというと、肖像画からわかるように、面長で整った顔立ちをしており、織田家の家系は、妹のお市の方が絶世の美女だったり、総じて美形ぞろいといえ、正室濃姫や側室にも美形系を選んでいたようだ。

 

「戦国の三英傑」の10代を比べてみると、信長は「自由奔放すぎて、『うつけ』」と馬鹿にされ、秀吉は「下賤の身から脱しようと走り回っていた」のに対し、家康は10代になる以前から「人質暮らし」を強いられ、上述したようなさまざまな苦労や嘆きや悲しみを数えきれないくらい味わった。そういう過酷な境遇のなかで、家康は年齢よりはるかに大人っぽい決断を幾度となく繰り返す「波瀾の10代」を送ったのだった。

 

城島 明彦
作家

 

 

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※本連載は城島明彦氏の著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)より一部を抜粋し、再編集したものです。

家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

城島 明彦

ウェッジ

天下人となり成功者のイメージが強い徳川家康。 だが、その人生は絶体絶命のピンチの連続であり、波乱万丈に満ちていた。 家康の人生に訪れた大きな「決断」を読者が追体験しつつ、天下人にのぼりつめることができた秘訣から…

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