脳の大手術で過去も未来も失った青年
米コネチカット州に住むヘンリー・モレゾンが、てんかんの治療のために脳の手術を行ったのは1953年のこと。9歳から続く激しい発作を抑えるべく、海馬や扁桃体のおよそ3分の2を切除する大手術が行われました。
おかげで無事に発作は止まり、術後の傷も順調に回復。ようやく平穏な日々を過ごせるのかと思いきや、ヘンリーの苦難は終わりませんでした。
手術を終えた直後から、彼は自分の身に起きた新しい出来事を記憶できなくなったのです。ヘンリーが思い出せるのは、ウォール街の暴落や真珠湾攻撃といった27歳までの事件だけで、術後に知り合った人は何度会っても初対面にしか思えず、昨日見たばかりのテレビや映画も覚えられません。
すべての出来事は20秒以内に脳からこぼれ落ち、彼は“永遠の今”に囚われたまま55年の人生を終えました。
20秒の"現在”がひたすら繰り返される健忘症の恐ろしさ
この症例からわかる事実はいくつもありますが、中でも興味深いのは、ヘンリーが過去を失うと同時に未来まで失ってしまった点でしょう。すべての出来事を覚えられなくなった直後から、ヘンリーは未来の情景をまったく思い描けなくなりました。
明日も再び病院を訪れるだろう自分。1ヵ月後にも今と同じ家に住んでいるだろう自分。1年後には海外に旅行しているかもしれない自分。私たちはみな日常的に未来の自分を思い描き、そのイメージをもとに日々の意思決定を行います。
しかし、ヘンリーの頭に浮かぶ未来像はつねに空白で、目の前にホワイトボードを置かれたような状態だったというから驚きです。このように、健忘症の患者から未来が失われてしまう現象は、決して珍しいものではありません。
たとえば、ロンドン大学などの実験によれば、脳の記憶領域にダメージを受けた患者は、「次のクリスマスを想像してください」と言われても空白のイメージを浮かべるだけか、「ツリーの飾り」や「ジングルベルの音」といった断片的な情景しか思い描けなかったと報告されています。
さらに悪いことに、健忘症の患者は、時間の流れにもゆがみが起きやすい傾向があります。ヘンリー・モレゾンを調べた1973年の研究によれば、彼が時間の経過を正しく推測できたのは約20秒まででした。
要するに彼は、自分の記憶力が続く限界の中でしか、時間をうまく見積もることができなかったわけです。ヘンリー・モレゾンの苦難からわかるのは、私たちの時間の見積もりは、つねに「想起」の影響を受けるという点です。
当たり前の話だと思われたかもしれません。想起をもとに未来を思い描く作業は誰もが日常的に行っており、1週間前の家事の記憶をベースに次の掃除の計画を立てたり、カレンダーを参考に運動の予定を組んだりといった行為は、すべての人におなじみのものでしょう。
しかし、ここで本当に重要なのは、神経科学者のドウェイン・ゴッドウィンによる指摘です。
「人間が1分間をある程度まで正確な長さとして感じられるのは、その前の1分間を『感じたこと』を記憶しているからなのだ」
何度も見てきたように、私たちが感じる「明日」とは、「昨日の自分」を未来に外挿したメンタルモデルにほかなりません。次の1秒が過ぎるあいだにも、人間の脳は過去の想起から未来の「1秒」を作り上げ、これを時間の経過としてあなたに体験させています。
そのため、想起がずれた人ほど時間の流れを誤認し、時間をうまく使えなくなってしまうわけです。事実、脳科学者のデミス・ハサビスによるレビューでも、過去の体験を記憶するのが不得意な人ほど未来を思い描くのが苦手で、そのせいで時間の感覚に狂いが生じると報告されています。
過去の想起なくして、未来は存在しないのです。