悪口も愚痴も言わないのが角栄だった
■人心をつかんだ角栄流気遣い術
そんな角栄だが、わきまえるところはわきまえた。すべてにおいてグイグイ押すようなイメージが強いが、それだけではなかった。
秘書官の小長はこんなことを覚えている。1972年、角栄は首相になるとまず日中国交正常化をやってのけ、世界を驚かせたが、その後、間髪入れずに資源外交に乗り出した。フランスから始まり、イギリス、西ドイツ、そしてソ連(現ロシア)と回る強行軍である。
「日本のエネルギーの調達先を多角化し、経済成長を安定軌道に乗せなければ」
角栄はそんな思いでヨーロッパを巡ったが、気になるのは食事だ。体調を左右する。京風の薄味の懐石料理ですら口に合わない角栄だから、バターと生クリームが中心のヨーロッパの食事はさぞかしつらいだろうと周囲が案じ、「日本料理を用意しましょうか」と申し出た。ところが角栄は「いやいや、結構。それには及ばない」とこれを断った。
本音のところはぜひそうしたかったはずだ。日中国交正常化のため中国を訪れた際は、味噌汁の味噌にすらこだわったのだから。
しかし「食事くらいのことで周囲を煩わせては申し訳ない」。角栄一流の気遣いだった。公私の区別はつける。角栄が好かれた理由の1つだ。
時間に厳しかったのも、角栄の特徴だ。総理大臣になってもよほどのことがない限り、時間に遅れることはなかった。
「時間を守れないような人間は信用されない」
そう思っていた。自分にとって時間が大切なように、他人にとっても時間は貴重だ。時間に遅れることは他人の時間を横取りしてしまうのと同じだ。仕事はもちろん「夜の宴席でも5分か10分前には到着し、相手を待っているよう心がけていた」(小長)という。
人への気遣いという点では、悪口も愚痴も言わないのが、角栄だった。そういったマイナスの言葉は聞いているほうが不快だ。一緒にいる人を嫌な気持ちにする。
1974年11月号『文藝春秋』で立花隆が「田中角栄研究」を発表し、田中金脈問題の追及が本格化し、1976年にはロッキード事件が発生するが、この間、そばにいることが多かった小長に角栄は「一度も愚痴を言ったことがない」という。
田原 総一朗
ジャーナリスト
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