社員とのコミュニケーションが欠かせない
■後継者が経営体質を変えることも
しかし往々にして中小企業の経営者は、事業承継については極めて重要なことだと認識しながら、あまり準備もせず、ずるずると交代時期を引き延ばし、結局適任者を育てきれずに、時間切れ、休廃業に至るケースが多々ある。そうしたケースが無視できないほどだということは、『中小企業白書』の数字が示す通りである。
ところが経営者自らが、事業承継に心を用いなくとも、中小企業家同友会に加わって先輩たちから刺激を受けているうちに、渡される側の二世、あるいは三世が承継の重要性を自覚し、自社の組織、経営体質を自分が考える方向に変革していくケースがままあるようだ。同友会という勉強会型組織の不思議な一面である。
記者がその事実に気が付いたのは、北陸特有の熱さに包まれた2018年8月25日午後、金沢駅前にあるホテルで開かれた富山・石川・福井、北陸三県の青年経営者合同例会における一人の会員の発表をたまたま聞いたからである。発表者は前年に石川同友会青年部会の会長を務めた萩野充弘氏。建築・橋梁関連の塗装では県内一の実績を誇る萩野塗装の常務である。
萩野塗装は充弘氏の祖父が戦後まもなくの1946年、県南部の小松市で創業した。当時はいわゆる「町のペンキ屋」にすぎなかったが、それを県内一の塗装業者にまで拡大させたのが二代目社長、すなわち充弘氏の父親である。剛腕である分、超ワンマンで、経験則を盾にとって幹部はもちろん部下の言うことなどよくよくでないと聞かない。
充弘氏は日本大学を出ると名古屋の塗装会社で修業を積み、5年後に帰郷、萩野塗装に常務として入社する。入って驚いたのが、社内の荒んだ空気だった。充弘氏の講演原稿での表現をそのまま借りよう。まず社長が怒鳴りだす。
「そんな大事なこと、なんでもっと早く言わんのじゃ?」
「この前、ちゃんと言うたやろ!」
「なに??おまえの…その態度はなんじゃー?」
社内の荒れた空気を収めるべき社長が、率先して怒鳴りあいを始めたり、加わったりしていた。当然、社員の定着率がいいはずはなかった。この会社を引き継ぎ、社員が働き甲斐を感じられるさらにいい会社にしていけるのだろうかと、充弘氏はいつも不安に襲われたという。
29歳で石川県中小企業家同友会に入会した充弘氏は、支部例会などで聞く他社の人間関係の温かさに、羨ましさを感じざるをえなかった。いい会社にして、社員さんを満足させたい。そうは思うものの、何から始めていいのかわからなかった。事務所に入るには20段ほどの階段を上らないといけないのだが、充弘氏は気分が重く、毎日上るその階段がえらく長く感じられてならなかった。
転機は35歳のとき。石川県で同友会の「経営者フォーラム」が開かれ、大阪府中小企業家同友会の山田製作所山田社長が講演に訪れた。話のなかで充弘氏の心を捉えたのは、「社員共育力とは、その会社の風土、人を育てる文化である」とし、「そのためには社員とコミュニケーションをとることが欠かせない」ということだった。
コミュニケーションをとるか? いろいろ悩みつつ試行錯誤を重ねていたある月曜日朝のことだった。社長以下が顔を揃えている折を見計らって、充弘氏は「今から朝礼を始めます」と勇気を奮って声を上げたのである。前もって根回しなどしてなかった。
最初、何のことかといった顔をしていた社長が、「これはみんなにとっていいことや」と評し、ぎくしゃくした数分だったが朝礼が行われ、最後に全員で「今日も一日ガンバロー」と叫んで拍手するという、何ともすがすがしい仕事始めとなった。振り返ると、あの二十数段の階段がめちゃ低く感じられたという。この日を境に、時間はかかったが社長を含めて社内全体がコミュニケーションを形成する方向へと歩み始めたのだった。
当時、社長は同友会における経営理念づくりなど「きれいごとを言ってばかりはおれん」と言って頭から反対するし、社員も経営計画を作成し、長期的視点で会社のことを考えようと言ってもほとんど理解を示さなかったが、毎週の朝礼で言い続けていくうちに、だんだんその下地ができていった。
父親も力任せではない、長期的視野に立った息子の目指す新しい時代の会社づくりが理解できたのであろう、そのうえでもう任せて大丈夫だろうと確信したに違いない。8月の金沢での発表会から数日後、社長の座を充弘氏に譲った。すでに本社は北陸の中心都市金沢に移しており、次に目指すのは北陸断トツの塗装業者の座である。