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熱心に働いていた特別支援学校高等部2年生のH君
■“総幸福”の設定で課題解決
広島県中小企業家同友会内での障がい者問題への取り組みは、愛知中小企業家同友会が1964年に福祉担当理事を置いたのを皮切りに、少なくない同友会で活動が先行している。1982年には中小企業家同友会全国協議会(中同協)も障がい者問題委員会を発足させ、全国レベルでの障がい者問題全国交流会(隔年開催)も2019年で20回に達する。「人間尊重の経営」を掲げる同友会らしい取り組みだと言っていい。
広島県中小企業家同友会の福山支部の企業すべてが最初から障がい者雇用の取り組みに乗り気だったわけではない。特に重量物を扱う、金属加工関係の会社は、事故を起こしでもしたら大変だという心配から、当初はいずこも及び腰だった。鋼材を卸す一方、ガスやレーザーで切断、加工販売している日鐵鋼業の能登伸一社長もその一人だった。
大学卒業後4年間他社で修業したのち、26歳で父親の会社に入った能登氏が、最初に自社に対して感じたのは「なんと暗い会社だろうか」ということだった。社員が心を閉ざしている、将来に夢を持てない、生活にゆとりがない等々からきている現象だと想像できた。そこで同友会に入り、「労使見解」など経営に関する様々な勉強をし、改善策を実行したが、なかなか体質改善は成果を上げなかった。専務を経て社長に就任したが、事態は大きく変わらなかった。
ところが2010年、福山支部長に就任して以降、大きな変化が起きる。支部長就任に際しては所信表明を行わないといけない。
「たまたまブータン国王が来日される前年で、『国民総幸福(GNH)』という言葉が注目されていました。同友会のレポートで目にしたとき、これだと思い、支部のスローガンとして『企業内総幸福(GCH)』を高めようと述べたのです。それに合わせて自社の経営スローガンも『日鐵内総幸福の向上』としました」
「日鐵内総幸福の向上」について、能登氏はこう説明している。「第1に(企業としての)使命感に通ずるような経営理念を前提とし、働く皆に働き甲斐が感じられ、夢や希望が持てること。第2に社内に一体感、チームワークが感じられること。第3に社員一人ひとりの個性が生かされること」
この3つがさらに細かく、かつ具体的な施策に落とし込まれているのだが、「日鐵内総幸福の向上」の導入により、痼疾のように日鐵鋼業にへばりついていた「暗い雰囲気」は次第に払拭され、なかなか浸透しきれなかった3S運動(整理・整頓・清掃)も徹底できるようになっていった。「どの工場の、どの部分に、どれだけの材料が、どういう形で残っているか、事務所でも現場でもすぐ把握でき、顧客の注文にも即応できるようになった。無駄な在庫もなくなり、収益も確実に好転しました」
就業規則を定め、労使見解を勉強し、経営指針を作成し、会社の様々なことを、経理まで含めてきっちり示すなど、いろいろな施策がここで一度に花開いたのである。
■障がい者雇用で社内の空気が変わった
その能登氏がこの時期、もう一つ「無理じゃないか」と思いつつも取り組むことになったのが障がい者雇用であった。支部のバリアフリー委員長から「支部長になったのだから、今年はバスツアーを引き受けてくれ」と言われ、断り切れずに引き受けたのだ。
訪れた先生たちは熱心に工場を視察、翌2012年夏になると、福山北特別支援学校高等部2年生のH君が実習にやって来た。大柄で愛嬌のある彼は、40度を超える工場の中でも黙々と作業を続け、周りの者も称賛するほどだった。翌年夏、再び実習に来た彼を、能登氏は採用することにし、14年春からH君は日鐵鋼業の社員として働きだした。
能登社長の姉である三谷薫専務が、受け入れ態勢を整えようと障がい者雇用の実践事例を学ぶために九州に出かけたり、先輩社員も様々に応援したりしたが、結局H君は丸1年で退社してしまう。多動性障害で一つのことに集中できないことから、スケジュールを組んでいくつかの仕事を回すようにしたことが、自尊心の強い本人には受け入れられなかったようだと能登氏は話す。