社内が明るくなり、助け合いの雰囲気を醸成
しかし、能登氏はその後、支援学校から再度要請があり、新たな実習生K君を受け入れる。前もって社員に相談すると誰も反対しない。愛嬌があり、野球好きだったH君のことが頭にあり、会社の空気が明るくなるし、助け合いの雰囲気が醸成され、会社にプラスになると考えたのだろうと想像している。K君は、今、正社員として働いている。H君のときは障がい者雇用にややネガティブに見えた工場長が、今はなぜかK君を熱心に指導しているという。
「H君も、K君も実にいいヤツ。彼らがいることで会社、取引先まで含めて空気が変わった側面さえあります。私自身これまでは障がい者雇用に対して、あまりにも無知だったし、偏見があったと反省しています。とはいえ当社の今後の障がい者雇用については、まずK君が根づくようにすることが先決だと考えています」(能登氏)
■「社員の一員として活躍しています」
橋梁や建設機械などに装着される吊り具用金具を製造するオーザックも、以前の経営の反省からワークライフバランスに熱心に取り組むとともに、障がい者雇用を実践している一社である。同社の製品は東京港にかかるレインボーブリッジや瀬戸内海しまなみ海道の来島海峡大橋など、長大橋に欠かせないものとなっている。
岡崎隆社長は1986年、父の後を継ぎ社長に就任したのだが、当時10人いた社員の平均年齢は54歳。これではあと6年で会社が消滅すると危機感を抱き、何とか新卒採用をしたいと考えるようになったという。
バブル期に入っており業績は上向き、今度は四年生大学の工学部卒業生を採用したいと考えるようになり、そこで売上高5億円余りながら機械・設備含め総額5億円をかけて新工場建設に踏み切った。が、新工場完成の翌92年にバブルが崩壊、岡崎氏が描いていた改称したばかりのオーザックの将来像はものの見事に瓦解する。
その後は役員報酬の引き下げなど固定費の削減、新卒通年採用の停止、中途採用の停止など、必死の再建策が続けられる。そうしたとき、社内会議の「オーザックの将来が見えない」という社員の声に気付きを得た。同友会で学び、経営理念は作成していたが、まだ経営者だけのためのものだったのだ。
そこで岡崎氏は、社員たちに将来が見えるように「事業発展計画書」をつくることを決断する。そしてこの「事業発展計画書」を社員と共有できたことが、オーザック再生のスタート地点となった。新卒社員の採用を再開したのは2005年のこと。その間も電子部品関連に手を出し、痛い目に遭ったりしている。
以降は本業に回帰し、コストを下げるために工場を24時間稼働に切り替え、社員も多能工化した。さらに生産管理システムを切り替え、注文、生産、在庫をコンピューターで管理し、納期遅れを根絶した。いずれも社員の理解、協力があって可能になったことだ。
夫人で専務の岡崎瑞穂氏は「ある時期から、私たちは社員を家族だと考えるようになった。ただ働け働けと言ってもだめだと気づいたのです。そこで社員の要望に応じて、2012年には完全週休二日制に切り替えるとともに、順次産休や育児休暇も取れる体制に切り替えてきています。社員を家族と考え、彼らのアイデアを借りることにより、生産性を落とすことなくそれらが可能になったのです」と語る。ここにも経営指針作成活動の好影響を見ることができる。
職場環境が整備された結果、社員の質も向上。岡崎氏によると「社員が面接するのですが、なんであんないい子を落とすんだという子まで落としている」と苦笑する。もちろん、それなりの理由はあるのだそうだが。
最後に、ダイバーシティである。岡崎専務が語る。
「うちの障がい者雇用の社員は、沼隈特別支援学校との交流で来ました。当社へ来てとても熱心に勉強して、いまは品質保証部で働いています。症状からか苦手な作業はありますが、周りの人間とも十分コミュニケーションが取れており、障がい者と健常者の区別なく、オーザックの一員として活躍しています」と説明する。
いずれにしろ、広島同友会福山支部の障がい者雇用の取り組みは、一直線でとは言えないまでも、前進していることは間違いないだろう。その結果、会社や取引先まで元気になり、雰囲気も好転し、業績もまた上向きになっている。
清丸 惠三郎
ジャーナリスト
出版・編集プロデューサー