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今日、明日だけでなく10年先の話をしよう
■社員は理念を共有するパートナー?
第8回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞の中小企業基盤整備機構理事長賞(2018年3月)の受賞や、経済産業省制定の「新・ダイバーシティ経営企業100選」(17年3月)選定などにより、多くのメディアで注目されている吉村。同社は同友会の経営指針成文化セミナーに参加したことで、企業として再生、今日の高評価へとつなげていった企業である。主役は一見、しゃきしゃきと下町のお母さん然とした三代目の橋本久美子社長である。
吉村の創業は1932年。品川で10人ほどの女性を雇い、大田区の羽田、大森近辺の海苔屋に包装用資材や紙袋を製造、卸したのが始まりという。その後、海苔屋は閑散期にお茶を扱うことが多いことを知り、お茶用の風袋(包み袋)も製造することになり、次第にこちらのほうが中心となっていった。
吉村に飛躍をもたらしたのは、橋本氏の父親、吉村正雄氏である。73年に社長に就任すると、折から保存性の高いアルミパッケージが登場したこともあり、「流通は川上へ行く」が口癖だった正雄氏は、まさに最上流であるお茶の産地、静岡県焼津市に工場を建設、グラビア印刷やラミネート加工ができる一貫製造設備を導入する。
紆余曲折はあったが、正雄氏の積極政策が功を奏し、比較的小ロットで、カラフルなパッケージを製造できる吉村は売上高52億円にまで急成長する。しかしそのころには、日本人の飲み物はコーヒーや紅茶に中心が移り、お茶に関してもペットボトルが好まれるようになっていた。茶かすを処理しなければならない茶葉は面倒がられて消費はどんどん下がっており、国民飲料の座から滑り落ちつつあった。
橋本社長は日本女子大学を出て、5年ほど家業を手伝っていたが、専業主婦として大阪で暮らすことになる。そこで友人たちとのお茶会で口にするのはコーヒーや紅茶ばかり。家業のことを考えると、いても立ってもいられない思いに駆られた。
大阪での生活を10年で切り上げて、吉村に復帰した橋本氏が見たのは、消費の末端で起きている現実をよそに、かつての成功を背景に専権を振るう父親と、それに疑問なく従う幹部、従業員だった。折からライバル会社は大手の傘下に入り、価格戦争を仕掛けてきていた。対抗策はライバルを上回る値下げで、会社の収益は落ち込む一方だった。
あるとき、役員会で橋本氏はこう言い放った。「いつも相手の動きを見ての、今日の話ばかり。誰も(わが社の)明日のことを考えてない。論議していても楽しくないし、それでこの会社は持ちますか?」
橋本氏は当時、「お茶屋さんが売れるように応援して、ありがとうと言われる、それが自分たちのやりがいになるし楽しい」と考えていた。同時に何にでも手を広げるのではなく、「お茶業界のビジネスパートナーになる」という決意を固めていた。