3―経済学的な視点で見る所得格差
経済学には、経済成長と所得格差の関係を説明した理論が複数ある。それぞれ前提とする条件や経済思想、イデオロギーなどが異なるため、結果が対立したものも少なくない。
そのため、万人が納得できるコンセンサスは、形成されていないというのが現状だろう。ただ、世の中の賃金や所得の分配に対する規範的な考え方が変わる中、両者の関係を語る論調には変化も生じている。ここでは、両者の関係を説明する主な理論や見解などを整理し、近年見られた論調の変化について事例を紹介する。
1.「経済成長」が「所得格差」に及ぼす影響
【1】クズネッツ仮説:経済の発展段階で異なる格差への影響
経済成長と所得格差に関する代表的な理論として、よく引用されて来たのが「クズネッツ仮説」だ。米国の経済学者であるサイモン・クズネッツは、米国、英国、ドイツの発展過程と所得分布を観察し、経済成長と所得格差の関係は、経済の発展段階に依存するという仮説を提唱している。
この仮説では、発展段階に入る前の農業社会では、人口の大多数が必要最低水準の所得で生活しているため、国内格差は小さい状況にあるが、工業社会に移行していく過程で、熟練労働者の所得は上昇していくため、経済発展の初期段階では格差が拡大していく。
しかし、さらに経済発展が進み、農業部門から工業部門へ労働力の移動が進むと国内格差はピークを向かえ、その後、生産性の低い農業部門は縮小し、工業部門が拡大していくことで、国内格差は縮小して行くとされる。
つまり、経済発展の初期段階では、経済成長と所得格差の間には「正」の関係があるが、発展段階が進み経済が成熟していくと、その関係は「負」に変わることを意味している。この両者の関係を、縦軸に「所得格差を示す指標」(ジニ係数など)を取り、横軸に「経済の発展段階」(1人あたりGDPなど)を取ると、上に凸の曲線を描くことから、「クズネッツ仮説」は「逆U字型仮説」とも呼ばれることもある。
【2】トリクルダウン仮説:高成長の追求による格差解消
経済の発展段階が進めば自然と格差は解消していくという「クズネッツ仮説」から発展した考え方に「トリクルダウン仮説」がある。この仮説は、所得税率や法人税率の引き下げ、規制緩和などの高所得者層や大企業等に恩恵の大きな経済政策を実施すれば、投資や消費が活発化して経済の成長が加速するため、その恩恵は低所得者層にも自然と行き渡るとする考え方だ。
成功事例としては、中国の鄧小平氏が1980年代に提唱した「改革開放」「先富論」が挙げられるとの見方もあるが、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E.スティグリッツ氏やポール・クルーグマン氏等が理論の正当性を疑問視するなど、仮説に対する見方は分かれている。
【3】トマ・ピケティ「21世紀の資本」:資本主義のもとでの格差拡大は不可避
なお、経済成長は、格差を拡大させるとの主張もある。「21世紀の資本」の著者であるトマ・ピケティは、資本主義の原理的なメカニズムのもとで資本収益率は経済成長(国民所得の伸び)を上回るため、資本所有で生じた不平等は累積的に拡大し、経済格差は拡大していくと主張している。
また、「クズネッツ仮説」において発展初期で見られる格差縮小は、2度にわたる世界大戦のあとに資本を再蓄積する必要が生じた結果、一時的に高い成長が実現したからだとする見解を示している。
ただ、このピケティ氏の主張に対しては、著名な経済学者であるグレゴリー・マンキュー氏等から批判の声が上がるなど、格差拡大が資本主義に内在するメカニズムによって生じるとする主張には、今の専門家の間で議論が分かれている。
2.「所得格差」が「経済成長」に及ぼす影響
【1】肯定的な見解:所得格差が経済成長を「促進」
経済学では、一般的に「公平性」と「効率性」はトレードオフの関係にあることを想定している。そのため、増税のような課税後所得の分配を公平にするための政策は、労働供給を歪め、資本蓄積を抑制するため、経済成長に悪影響を及ぼすと考えられる。
すなわち、高額な課税は勤労意欲の低下を招き、総貯蓄の減少が投資抑制につながる結果、労働供給の減少と資本蓄積の抑制要因となるため、生産にマイナスの効果を及ぼすという考え方だ。一般的に所得の関数として表わされる貯蓄は、所得が増加すると増加し、所得が減少すると減少する関係にあり、追加的な所得の増加に対する貯蓄の割合(限界貯蓄性向)は、所得が増加することで逓増する。
そのため、高所得者層における所得の拡大は、総貯蓄が増加することで資本蓄積を促進し、長期的な経済成長を高めると考えられる。また、機会均等が確保されていれば、所得格差は労働意欲や起業家精神を盛り上げるため、経済成長にはプラスの影響が及ぶという考え方もある。
【2】否定的な見解:所得格差が経済成長を「抑制」
一方、所得格差が経済成長に否定的な影響を及ぼすとする見方には、低所得者層の借入制約や経済の効率性の低下、社会政治上の不安定化に伴う治安維持や取り締まりのための政府資源の浪費、といった要因が挙げられる。
例えば、借手と貸手の間の情報が互いに限定されている場合(情報の非対称性)、または、債権者による債務回収を制限するような制度が取られている場合(制度の不完全性)には、低所得者層は借入制約に直面して、将来的に高いリターンを得られる教育や職業訓練などへの人的投資の機会を失い、経済成長が抑制されるという考え方だ。
また、極端な所得格差が低所得者層の不満や怒りを高め、犯罪や暴動、その他の非生産的な活動へとつながり、社会政治上の安定が損なわれて、経済成長が阻害されるとの考え方もある。政策決定においては、ロビー活動やレントシーキングが活発化して、政策が貧弱になり、非効率な政策が実施されることでも、経済成長は阻害されると考えられる。
3.格差是正の必要性に関する論調の変化
ここまで見てきたように経済成長と所得格差の関係を説明する議論は、まだ万人が納得するようなコンセンサスはできていない。また、これまでに世界で行われた様々な実証研究でも、その結果は、肯定的、否定的、関係自体が明確でないとするものなど様々だ※。
※Kholeka Mdingi,Sin-YuHo,"Literature review on income inequality and economic growth" MethodsX vol.8 (2021)
ただ、足元の変化として意識されるのは、従来のように経済成長を通じて、所得格差が自然と縮小していくとする見方だけでなく、所得格差が経済成長に悪影響を及ぼすとの認識が増えて来たことだ。
後者の見方として注目されるのは、2014年に国際通貨基金(IMF)と経済協力開発機構(OECD)が公表したレポートがある。IMF※によれば、所得格差は経済成長の抑制や、経済成長の持続可能性を低下させる可能性がある一方、所得再配分政策は一定レベルに留まる限りにおいては、経済成長への悪影響は確認されないと説明している。
※Jonathan D. Ostry, Andrew Berg, and Charalambos G. Tsangarides, "Redistribution, Inequality, and Growth" IMF STAFF DISCUSSION NOTE, February 2014.
また、翌年2015年に公表されたレポート※では、「貧困層・中間層の所得シェアが1パーセントポイント拡大すると、その国のGDP成長率が5年間で0.38パーセントポイントも増大する。対照的に、富裕層の所得シェアが1パーセントポイント上昇すると、GDP成長率は0.08パーセントポイント縮小する」と分析している。
※Era Dabla-Norris, Kalpana Kochhar, Nujin Suphaphiphat, Frantisek Ricka, Evridiki Tsounta, "Causes and Consequences of Income Inequality: A Global Perspective" IMF STAFF DISCUSSION NOTE, JUNE 2015.
同様にOECD※は、所得格差の趨勢的な拡大は、経済成長を大きく抑制していると分析し、「租税政策や移転政策への取組みは、適切な政策設計(対象を適切に絞り込み、最も効率的なツールを重視した政策)の下で実施される限り、成長を阻害しない」と結論づけている。
※OECD Social, Employment and Migration Working Papers, December 2014
そのうえで、政策的な対応としては、現金移転のような貧困防止対策だけでは不十分であり、質の高い教育や訓練、保健医療などの公共サービスへのアクセス拡大などが必要であると指摘している。