(※写真はイメージです/PIXTA)

2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一は、パリで学んだ知識を生かし、武士と商人が力を合わせて商いを営む「商法会所」を設立。駿府藩の財政改革に乗り出します。渋沢はその生涯において500社を数える企業の設立や運営などに関わったと言われています。歴史好きとして知られるお笑い芸人のビビる大木さんの解説を読めば、大河ドラマを楽しめること間違いなし。※本連載は、ビビる大木氏の著書『ビビる大木、渋沢栄一を語る』(プレジデント社)より一部を抜粋・再編集したものです。

91年の生涯で、30人以上のわが子を得た

渋沢さんは1931(昭和6)年に、幕末・明治・大正・昭和と生きぬき、91歳の大往生を遂げました。堂々たる人生ではないでしょうか。

 

しかし、大正時代に入るあたりから、当時の若い実業家からはこんなふうに言われることもあったようです。それは、「渋沢爺さん、そろそろ完全引退したらいいんじゃないかい。いまだに、財界で何かしようとすると渋沢爺さんが、政界では山県爺さんがしゃしゃり出てくる。何とかならんのかな。老害だね」という陰口でした。

 

その代表例が、福沢諭吉の娘婿・福沢桃介でした。

 

「渋沢さんは自分の息のかかった若手ばかり、会社に送り込んで、やっていられないよ」という愚痴めいた記事がありました。『週刊ダイヤモンド』創刊号での記事でした。どんなに功績のある人物も、若者からすると否定の対象でしかないという構図は、いつの時代も一緒かなと思います。

 

さて、1931(昭和6)年、渋沢さんは直腸ガンをわずらい、手術のかいなく危篤の状態に陥りました。最期を看取った当主・渋沢敬三は、渋沢さんの孫にあたる人物でした。彼はその後、日銀総裁や大蔵大臣などの要職を務めるとともに、自らが民俗学者として活躍します。宮本常一をはじめ、多くの学者に援助を惜しまなかったと言われています。

 

手術から1カ月以上臥って、丸3日も高熱が続いたそうですが、渋沢さん本人には悲壮な様子は微塵もなかったと敬三は書き遺しています。むしろ、「やっとだ。いよいよだ。これでやっと死ねる」と、渋沢さんはむしろ危篤を味わっているかのような様子だったと言います。

 

渋沢さんは妻・千代との子を3人、後妻・兼子との子を4人もうけています。また、愛妾たちも数多く持ち、その子どもたちは30人以上と、さすが株式会社を500以上創業させた手腕と同じで、僕はもう感嘆せざるを得ません。

 

渋沢さんの死後、日本は激動の時代に入りますが、もし渋沢さんが生きていたら何をしていたのか。そういったことも知りたくなりました。もしかすれば、今とは違う時代になっていたかもしれませんね。

 

 

ビビる大木

 

 

ビビる大木、渋沢栄一を語る

ビビる大木、渋沢栄一を語る

ビビる 大木

プレジデント社

歴史好き芸人・ビビる大木が、 同郷の偉人・渋沢栄一の遺した言葉を紐解く! 「はじめまして、こんばんみ! 大物先輩芸人と大勢の後輩芸人の狭間で揺れる40代『お笑い中間管理職』の僕。芸人としてこれからどうやって生き…

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