91年の生涯で、30人以上のわが子を得た
渋沢さんは1931(昭和6)年に、幕末・明治・大正・昭和と生きぬき、91歳の大往生を遂げました。堂々たる人生ではないでしょうか。
しかし、大正時代に入るあたりから、当時の若い実業家からはこんなふうに言われることもあったようです。それは、「渋沢爺さん、そろそろ完全引退したらいいんじゃないかい。いまだに、財界で何かしようとすると渋沢爺さんが、政界では山県爺さんがしゃしゃり出てくる。何とかならんのかな。老害だね」という陰口でした。
その代表例が、福沢諭吉の娘婿・福沢桃介でした。
「渋沢さんは自分の息のかかった若手ばかり、会社に送り込んで、やっていられないよ」という愚痴めいた記事がありました。『週刊ダイヤモンド』創刊号での記事でした。どんなに功績のある人物も、若者からすると否定の対象でしかないという構図は、いつの時代も一緒かなと思います。
さて、1931(昭和6)年、渋沢さんは直腸ガンをわずらい、手術のかいなく危篤の状態に陥りました。最期を看取った当主・渋沢敬三は、渋沢さんの孫にあたる人物でした。彼はその後、日銀総裁や大蔵大臣などの要職を務めるとともに、自らが民俗学者として活躍します。宮本常一をはじめ、多くの学者に援助を惜しまなかったと言われています。
手術から1カ月以上臥って、丸3日も高熱が続いたそうですが、渋沢さん本人には悲壮な様子は微塵もなかったと敬三は書き遺しています。むしろ、「やっとだ。いよいよだ。これでやっと死ねる」と、渋沢さんはむしろ危篤を味わっているかのような様子だったと言います。
渋沢さんは妻・千代との子を3人、後妻・兼子との子を4人もうけています。また、愛妾たちも数多く持ち、その子どもたちは30人以上と、さすが株式会社を500以上創業させた手腕と同じで、僕はもう感嘆せざるを得ません。
渋沢さんの死後、日本は激動の時代に入りますが、もし渋沢さんが生きていたら何をしていたのか。そういったことも知りたくなりました。もしかすれば、今とは違う時代になっていたかもしれませんね。
ビビる大木