視察先のフランスで、人生初の金融投資
平岡円四郎に推挙され、渋沢さんは一橋家の家臣となりました。このときに、渋沢さんらしいエピソードが残されているそうです。
仕官することになった渋沢さんでしたが、ただ黙ってすんなりと家臣になったわけではありません。一橋慶喜に初めて直接謁見したとき、自分の考えた意見書を読み上げたと言います。
その主な内容は、「役に立つ人材を大勢採用するべきだ」というものでした。どうしても何か一言、言わずにはいられなかったのでしょう。一橋慶喜は何もコメントしなかったそうです。
一橋家に仕えることになった渋沢さんが最初に行ったのは、農兵の募集でした。「一橋家歩兵取立御用掛」を命ぜられ、関東の一橋家領内を巡回した際に50人ほどを集めたそうです。意見書どおりに、人を集めることを有言実行して見せたのです。さらに、領内貿易の合理化を進め、藩札の流通化を図るなど、さまざまに活躍します。
1866(慶応2)年、一橋慶喜は第15代将軍となりました。最後の征夷大将軍・徳川慶喜が誕生した瞬間でもありました。それに伴い、渋沢さんは幕臣になりました。
翌1867(慶応3)年、パリで万国博覧会が開催されることになり、27歳の渋沢さんも随行員としてフランスへと旅立ちます。29人の使節団の一員に選ばれたのです。これはパリ万国博覧会への出席だけに留まらず、徳川慶喜の異母弟・徳川昭武(あきたけ)の長期留学も兼ねたもので、ヨーロッパ各国の視察も行われました。
先進的な産業や軍備、何より近代的な社会を見た渋沢さんは、非常に感銘を受けたと言います。特に、各国への移動で使った鉄道の便利さに感動し、日本にも鉄道交通が必要だと強く感じたそうです。
食卓に並ぶ日用品、ガス燈、電線、上下水道、病院などの社会的インフラ。そして工場、会社、取引所、銀行など、労働と資本を融合させ、富を生産する資本主義のシステム。渋沢さんはあらゆることに驚き続け、乾いたスポンジのように知識を次々と吸収していきました。
ヨーロッパでは、鉄道や紡績、鉄の生産など、多額の資本を必要とするさまざまな事業が民間で運営されていました。これらの事業は、合本組織(株式会社)として社会から広く資金を募って運営し、その背後にはバンクという金融システムがあったのです。こうした当時最先端の経済の仕組みを、渋沢さんはヨーロッパの地で知りました。
パリ万博とヨーロッパ視察を終えると、フランスでの徳川昭武の留学生活が始まりました。渋沢さんは資金勘定担当だったこともあり、留学費用を捻出するために、現地の世話人から勧められたフランスの政府公債と鉄道株を買い付けることを決めます。銀行に預けるよりも、公債や株を買ったほうが儲かると言われたのです。
これが、渋沢さん、人生で初めての投資でした。
ところが、フランス滞在から1年半後、徳川慶喜が大政奉還を行ったため、新政府から帰国するように命ぜられました。そこで買っていた公債と鉄道株を売ったところ、儲けが出たそうです。このことを、渋沢さんはおもしろいと感じたと言われています。
渋沢さんの当時の貴重なフランス滞在の体験が、のちの日本の金融制度や株式会社制度の根幹になったことは間違いありません。